歴史の風 2 〜多賀城碑〜
歴史の風 2
〜多賀城碑〜
歌枕「壺碑(つぼのいしぶみ)」としても名高い多賀城碑。この碑には、古代の歴史書には全く見えない多賀城の創建や改修の事実が刻まれています。
多賀城碑は、多賀城の正面にあたる南門から城内に入ったすぐのところに、西を向いて立っています。碑面には、上部に「西」の一字があり、その下に11行140字が彫りこまれています。最初の5行は、平城京や蝦夷国(えみしのくに)などから多賀城までの距離が、次の5行には、神亀(じんき)元年(724)大野東人(おおのあずまひと)が多賀城を設置したこと、天平宝字(てんぴょうほうじ)6年(762)藤原恵美朝獦(ふじわらのえみのあさかり)が多賀城を修造したことが記され、最後に碑を建てた天平宝字6年12月1日という日付が刻まれています。
碑は、江戸時代の初めごろから知られるようになり、歌枕の「壺碑」の名で呼ばれたことから、多くの文人や書画をたしなむ人たちがこの地を訪れました。松尾芭蕉もその一人で、紀行文『おくのほそ道』には、壺碑と対面したときの感動が書き残されています。
しかし明治時代になり、碑文の内容に関する疑問が出されて、碑をめぐる論争が起こり、決着がつかないまま、多賀城碑は江戸時代に作られた偽作とされ、長い時間が経過しました。
ところが、多賀城跡の発掘調査が進展すると、多賀城碑は再び脚光を浴びるようになります。碑文に見える多賀城の創建と修造年代が、発掘調査の成果とおおよそ合致したのです。これにより、碑の再検討が始められ、その結果、偽作とみなされた際の根拠については、必ずしも妥当ではないことが判明しました。
このように、碑の発見は、古代東北の政治文化の中心であった多賀城の存在を世に広め、研究や保護活動のきっかけとなりました。碑の存在があったからこそ現在の多賀城跡があると言っても過言ではないでしょう。
多賀城と古代東北の解明にとって重要な記載があり、数少ない奈良時代の金石文(きんせきぶん)として貴重であることから、多賀城碑は平成10年、国の重要文化財に指定されました。