陸奥総社宮について

本社の鎮座年月は明らかではありませんが、往古陸奥国の府内にして陸奥国府に属する総社で、かつて歴代の国司の奉斎したところとなります。国司は任国内の諸社に神拝することが定められていましたが、巡拝の手間を省くため、国内の神社を一箇所に集めて詣でることが広まりました。当社は陸奥国府多賀城に赴任した国司が、多賀城東門の近くに合祀勧請したのが始まりとされています。

鎌倉時代には、奥州留守職伊澤氏が国司に代り祭祀料として三干刈の地を寄進したと言われています。また、伊達政宗公も当社の再興に意を注ぎ、別当寺市川山神奏院(真言 塩憲法法蓮寺末寺)を置いて社務を行いました。歴代藩主の尊崇篤く、親拝代参などがあったとされ、世間一般からも篤い信仰を受けました。

明治四年十月に村社列格。明治四十一年には貴船神社外七社を合併し、大正十二年八月に供進社に指定されました。

社殿
本殿/流造 二・二五坪
幣殿/三・七五坪、拝殿 十二坪
現在の本殿は、貞享四年六月、拝殿は、享保十九年三月改築したものである。
境内地
七九三坪
神職
宮司市川稔(本)
社家略系(別当真言ー宗市川山、神養院)
天正八年中興俊光ー宝円ー鏡雅ー宥雅
長音ー宥善ー宥仙ー宥応ー専如ー鑁済
鐘光ー賢宥ー慶康ー市川須奏ー同永治
武本時保ー加藤繁右衛門ー市川稔

昭和五十一年刊行「宮城縣神社名鑑」より抜粋