歴史の風 32 ~貞山運河と砂押川(七北田川)~
歴史の風 32
~貞山運河と砂押川(七北田川)~
現在の砂押川は市の北西部から東へ流れ、貞山運河に合流しています。このような流路になったのは、御舟入堀(おふないりぼり)が完成した寛文(かんぶん)13年(1673年)のことで、それ以前は湊浜(みなとはま)(七ケ浜町)から太平洋に直接注いでいたと言われています。
安永(あんえい)3年(1774年)の宮城郡蒲生(がもう)村風土記御用書出には、蒲生村の肝入(きもいり)を務めた小野源蔵が、慶長(けいちょう)年間(1596年~1615年)七北田(ななきた)川の流路を蒲生へと流れるように開削し、その功績により伊達政宗から具足(ぐそく)と兜(かぶと)を拝領し、苗字(みょうじ)・帯刀(たいとう)を許されたと記されています。このことを裏付けるように正保(しょうほう)年間(1644年~1648年)に描かれた国絵図(くにえず)には、蒲生へと流れる七北田川が描かれています。
また、同じく宮城郡湊浜風土記御用書出には、昔、市川(砂押川)が多賀城より湊浜へ流れていた頃には、商人船の往来があったが、寛文10年(1670年)、岩切川(七北田川)の流路を蒲生へとつけかえたことで、かつての川筋は田や沼などになったと記されています。
これらのことを整理すると、次のようになります。
①江戸時代初期以前は、七北田川の主流は新田(にいだ)から八幡(やわた)を通り湊浜へと流れていた。
②慶長年間、小野源蔵が七北田川の流路を蒲生へと改修した。正保国絵図には蒲生へと流れる七北田川が描かれた。
③慶長年間の改修工事で、すべての水が蒲生へと向かうようになったのではなく、一部は湊浜へも流れていた。寛文10年からの改修工事で完全に蒲生へ注ぐようになり、かつての川筋が田や沼になった。
七北田川の改修が行われた寛文10年は、後に貞山運河と呼ばれる御舟入堀と舟曳堀(ふなひきぼり)の開削が始まった年でもあります。これらの河川改修は、塩竈湾と仙台城下を結ぶ水上交通の整備を目指したものであり、仙台藩の財政基盤を支える重要な意味を持つものでした。
※今月号で貞山運河編は終了します。本市の貞山運河については、まだまだ不明な点が多く、古写真や資料等を探しております。情報がありましたら、文化財課文化財係(内線571、572)までご連絡ください。