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歴史の風 39 ~八幡の倉と大火~

歴史の風 39

~八幡の倉と大火~

 多賀城市の南部に位置する八幡地区は、歌枕「末の松山」や「沖の井」などが所在しており、歴史豊かな地域のひとつです。また、江戸時代には天童氏の所領となるなど、古くからまち並みが形成されていたこともあり、市内でも有数の倉の集中地域でもあるのです。

 グラフは、震災前における地区別の倉の数とその種類をまとめたもので、倉の数をみると八幡地区には35棟の倉があり、南宮の39棟に次いで2番目に多い数となっています。また、市川地区にも32棟あり、南宮、八幡、市川の3つの地区で市内の倉の約半数を占めています。

 八幡地区の倉で最も特徴的なことは、石倉が多いことです。倉は建てる材料により、板倉、土蔵、石倉の3種類に分かれます。

 グラフを種類別にみると、八幡以外の地区では板倉が多く、石倉が少ない傾向があるのに対し、八幡地区には石倉が多いことがわかります。八幡地区にある35棟の倉のうち4割以上にあたる15棟が石倉です。また、市内全体の石倉の数が30棟ですから、実にその半数が八幡地区にあるのです。

 その理由のひとつは、約100年前に起こった大火にあると考えられます。大正8年(1919年)4月に八幡のまちを襲った大火は、『多賀城町誌』に「全区殆ど全滅に瀕す。」と記されるほど大きな被害をもたらしました。当時の八幡地区の人々は、倉を再建する際に、燃えやすい木造の倉よりも、耐火性に優れた石倉を選んで建てたと考えられます。倉には、母屋からの延焼を避け、家財などを守る役割もあるので、とりわけ石倉を選んだのでしょう。

 大火からの復興を目指す際にも、将来を見据えた視点が先人達にあったことがうかがわれます。