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歴史の風 56 ~大日賣神社~

歴史の風 56

~大日賣神社~

 本市高橋5丁目の奈賀済公園の東側に大日堂があります。現在は住宅地の中に、新しい堂宇が鎮座していますが、以前は約600 メートル北西の、村外れの寂しい場所にありました。

 安永3年の「高橋村風土記御用書出」には、仏閣として「村鎮守 大日堂」とあり、寛永年中(1624~1643年)創建との伝承を記しています。境内は竪七間、横五間、堂は南向きで二尺四面、南向きの鳥居があるとの記載もあり、その名が示すように大日如来を祀る仏閣的要素と、村鎮守として鳥居を構えた神社的要素が混在する様相は、この大日堂の大きな特徴となっています。これは神仏習合思想によるもので、平安時代末頃から盛んになり、慶応4年・明治元年(1868年)に明治政府によって神仏分離令が発布されて、仏教と神道が明確に区分されるまで続きました。神仏分離令により、仏閣「大日堂」は大日賣(おおひるめ)神社として新たな歴史を刻むことになります。

 明治43年3月、南宮神社(南宮村村社)、日吉神社(山王村村社)、稲荷神社(新田村村社)、大日賣神社(高橋村村社)を奏社宮に合祀したいという合祀願が、各神社の惣代等連名で県知事あてに提出されます。その理由は、氏子が少なくて今後維持していく見込みがなく、祭祀などを行っていけないというものでした。

 現在、陸奥総社宮(奏社宮)には南宮、山王、新田、高橋の各村社の棟札が保管されており、大日賣神社については、弘化2年(1845年)の大日如来堂修復、安政4年(1857年)の大日堂奥殿修復、文久4年(1864年)の大日堂奥殿の屋根修復に関わる3点の棟札があります。いずれも別当は八幡村の光徳院が勤めており、同院が、八幡村周辺の村の祭祀まで執り行っていたことがわかります。

 奏社宮への合祀後、神仏が不在となった地元では精神的なよりどころとして、近隣の民地に大日堂を移設し、新たに堤焼の大日如来像を造って本尊としました。その後、昭和30年頃には再び元の境内に戻り、平成10年11月に高橋土地区画整理事業によって現在地に移転するという歴史をたどります。

 現在、鳥居には「大日如来」と記された扁額がかけられ、神仏が併せて祀られていた頃の歴史を伝えています。