歴史の風 58 ~天満宮~
歴史の風 58
~天満宮~
天満宮は市内留ケ谷(とめがや)1丁目に所在する社です。境内の「記念碑」には、天神社または太郎天神と称し、菅原道真公を祭ると記されています。
安永3年(1774 年)の『留ケ谷村風土記御用書出』には「村鎮守 天神社」と見え、「むとう」という小名にあると記載されています。社は南向き3尺作り、鳥居も南向きとあり、現在もその姿をとどめています。管理者にあたる別当は、野田屋敷の弥五助と次兵衛が勤めていました。
「記念碑」には、明治35年(1902年)に1千年祭を行った際に社殿を修理し、その後大正2年に修増築、昭和33年には、前年の暴風による破損に対する改築を行ったことが刻まれており、社殿の変遷が伺えます。
この村鎮守には、次のような伝承が伝わっています。もともとこの社は野田の桜井家の屋敷内に、氏神として祭られていました。そして隣の分家には夜泣き地蔵があり、子どもの夜泣きを治すお地蔵様ということで、信仰を集めていました。ある年の田植えの時期、人手が足りなくて困っていると、どこからか二人の働き手が現れて、一人は馬の鼻取りを、もう一人は馬鍬(まんが)押しをして代搔き(しろかき)を手伝ってくれたのですが、昼食を出そうとしたところ、二人の姿が見えなくなってしまったというのです。探すと、お地蔵様が水口(みなくち)に横になっていたことから、鼻取りをしてくれたのは夜泣き地蔵だったことが分かりました。そして、馬鍬押しをしたのは本家の氏神、天神様に違いないと皆で噂したということです。また、太郎天神という名称については、桜井家の家督息子の太郎が伊勢参りに行くにあたり、両親が道中の無事を祈って願をかけ、天神様がその願いを叶えてくれたことからついたと言われています。
現在境内には「記念碑」をはじめ4基の石碑があり、これらはいずれも地元留ケ谷はもとより塩釜の住民なども含め、多くの人々の寄附により建立されました。先の伝承と併せ、人々の天満宮に対する篤(あつ)い信仰の念を今に伝えています。