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歴史の風 67 ~古代都市の発見~

歴史の風 67

~古代都市の発見~

 昭和55年、多賀城跡調査研究所は、城外における遺跡の状況を把握するため、南門の南西約280 メートルの地点で発掘調査を行いました。大規模な建物や井戸とともに、南北に延びる運河状の大溝やバラス敷きの南北道路を発見したこの調査は、城外におけるまち並みの存在を初めて示したものでした。

 その後、昭和58年には多賀城の西側に位置する山王遺跡の調査で、後に東西大路と命名される大規模な東西道路を発見し、平成元年度から開始した三陸自動車道関連の調査では、東西・南北道路が広範囲に延びている状況を確認しました。各道路の間隔はおおよそ100 メートル(約1町)で、多賀城の南面一帯には、そのような直線道路による、方格地割(ほうかくじわり)の存在が分かってきました。その基準線となったのは、多賀城政庁の中軸線上に建設された幅23メートルの南北大路と、多賀城南辺から5町南に建設された幅12メートルの東西大路で、多賀城南面の地割りが、多賀城の強い影響下で設計されたことが明らかです。

 方格地割内は基本的に宅地で、役人、庶民、兵士などさまざまな人々の住まいが立ち並ぶ「まち並み」を形成し、その広がりは多賀城南面の東西約1・5キロメートル、南北約0・8キロメートルに及んでいます。

 このまち並みの中では、住居となる建物のほとんどが掘立柱式であり、竪穴住居が一般的な東北地方の集落とは形態・外観ともに異なるものだったようです。各区画からは食器や貯蔵容器など生活の道具が大量に見つかっており、中国産の高級な陶磁器をはじめ東海地方や京周辺で焼かれた上等な陶器が少なからず発見されることから、物資の流通が盛んで、多量のモノが消費される場であったことを物語っています。また、都で行われるまじないや祓はらいの道具も数多く発見されており、このまち並みで暮らす人々が、都と同様の生活様式を取り入れていたことを示しています。

 このようなまち並みは、大宰府や伊勢の斎宮(さいくう)(三重県)と同じ、地方の「都市」と評価すべきものであり、その発見は、50年以上に及ぶ多賀城の調査の中で、特筆すべき成果と言うことができます。