歴史の風 70 〜八幡の沖地蔵〜
歴史の風 70
〜八幡の沖地蔵〜
八幡2号公園の東側に地蔵像が3体祀(まつ)られており、元々は八幡の旧沖区にあったことから、沖地蔵と呼ばれています。旧沖区は現在の桜木南から桜木東にかけて広がっていた地区で、中谷地・宮内・原の3つの集落で成っていました。戦時中、この一帯に多賀城海軍工廠が建設されることになり、昭和17年から始まる強制移転によって、旧沖区の住民は各地に移っていきました。この時に現在の八幡沖地区に集団移転地が設けられ、多くの人はここに移り住みました。沖地蔵もこの時に一緒に旧沖区から移動されました。
3体の地蔵像のうち、向って左側の2体は中谷地に、右側の1体は宮内にあったものです。この3体はそれぞれ何回か場所を移動し、昭和40年頃に現在地に3体一緒に置かれるようになったとされています。中谷地の地蔵に関しては、進駐軍によって持ち出され、一時行方が分からなくなり、陸上自衛隊苦竹駐屯地の前で見つかったという話も残っています。
中谷地の地蔵は、旧沖区中谷地から移転してきた家によって組織されている地蔵講を中心に信仰されてきました。祭日は8月23日で、この日は中谷地地蔵講の女性たちが赤飯や線香を持って拝みに来ます。
宮内の地蔵は、旧沖区の宮内から移転してきた家によって組織された地蔵講を中心に信仰されてきました。この地蔵講は平成24年に解散しましたが、その後も変わらず元講員の信仰を集めています。祭日は中谷地の地蔵祭の翌日、8月24日です。この日は宮内地蔵講に加入していた3戸が中心になって準備を行い、夕方には女性たちが赤飯を持って拝みに来ます。かつては地蔵堂に掛け軸を下げ、ろうそくをともし、地蔵講の人々が念仏を唱えて拝んでいたとされています。
多賀城海軍工廠建設による集団移転から75年の年月が過ぎ、当時のことを知る人は年々少なくなっています。しかし、旧沖区で信仰されていたもの、人々のつながりは世代を越えて受け継がれており、その一つとして沖地蔵も旧沖区の人々がたどった歴史を現在に伝えています。