歴史の風 71 ~八幡橋南袂の石塔群~
歴史の風 71
~八幡橋南袂の石塔群~
八幡(やわた)橋の南西、砂押川の堤防下に11基の石塔が並んでいます。後ろは南側の住宅地から堤防に上がる通路となっていますが、昭和20年代に砂押川の河川改修が行われる以前、八幡橋は現在よりも約20メートル西側の、その通路の先に架かっており、石塔は、橋下の大きな楓(かえで)の木の下にあったそうです。江戸時代の絵図に重ね合わせると、ちょうど八幡のまちの北入口付近にあたります。
ここには、117 文字の長い願文を刻んだ石塔が1基、中央に「南無阿弥陀仏」と念仏を刻んだ名号(みょうごう)塔が4基、山神(やまのかみ)塔が1基、馬頭観世音(ばとうかんぜおん)塔が5基あります。
長文の願文を刻んだ石塔は、寛文12年(1672 年)の造立で、銘文が完全に解読できず詳細は不明ですが、「念仏は」という文言で始まり、念仏供養に関係した供養塔と推定されます。名号塔は元禄5年(1692 年)から正徳3年(1713 年)まで、江戸時代前期の約20年間に造立されたものです。これらの石塔の下部には、その造立に関わった人々の名が書き連ねられています。法号で記され、生前に出家した人を除くとすべて苗字を持つ男性名となっています。八幡橋南袂(たもと)の願文を刻んだ石塔と名号塔は、武士が仲間を集って念仏を唱え、阿弥陀仏を供養する法会に関わる供養塔と考えられます。江戸時代、八幡村は、仙台藩の重臣天童氏が治めており、その家臣の数は村全体の約3割を占めていました。これらの供養塔は、武士が多く住んでいた八幡村の一面をのぞかせています。
山神塔は、文字どおり山神を祀(まつ)ったもので、文化15年(1818 年)の造立です。春に山から里に下って田の神となる山神は、豊作をもたらす農耕の神様です。馬頭観世音塔は馬の供養塔で、農耕馬や軍馬として重要だった時代に多く造立されました。山神や馬頭観世音に対する信仰は江戸時代後期頃から全国的に広がっており、それらの供養塔は市内でも各所で見ることができます。
供養塔は、造立した人々の祈りのかたちをそのまま示しています。人々の生活や信仰の様子など、重要な情報も含まれており、貴重な歴史資料と言うことができます。