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歴史の風 72 ~八幡村光徳院~

歴史の風 72

~八幡村光徳院~

 八幡村にかつて光徳院(こうとくいん)という寺院がありました。現在そこは住宅地になり、当時の面影を想像することすら困難ですが、天和元年(1681年)の「宮城郡八幡邑天童氏屋敷ならびに家中・足軽屋敷絵図」には、不磷寺(ふりんじ)と道路を隔てた北側に図示されています。安永3年(1774 年)の八幡村風土記御用書出によれば、名称は「松光山圓満寺光徳院」という天台宗の寺で、小松山という場所にあり、八幡村の領主天童久蔵(仙台藩準一家天童氏の九代倫頼(みちより))の家中寺と記しています。東向きで竪4間、横2間の仏殿があり、門は辰巳(たつみ)(東南)を向いていました。本尊は高さ1尺2寸の大日如来坐像で、慈覚大師(じかくたいし)の作と伝えています。

 同じく安永3年の光徳院住職亮俊による書出には、寺は天童久蔵の先祖、天童頼澄(よりずみ)が慶長年間に建て、伝海(でんかい)僧正が慶長13年(1608 年)に開山したとあります。本山は仙台城下元寺小路の地耀山光圓寺でした。光徳院は、菖蒲田浜の諏訪明神社、八幡村の天童明神社・内八幡社の別当(管理)を務めていました。天童明神社は現在の喜太郎稲荷神社を指し、内八幡宮は天童氏の拝領地内にあった神社です。この記載を裏付けるように、喜太郎稲荷神社に納められている喜太郎稲荷と内八幡の造営などに関わる棟札全てに光徳院僧侶の名前が見え、まつりごとを行っていたことが確認されました。さらに八幡村の西、高橋村の村鎮守大日如来堂の修復や、砂押川の対岸にある田中村・高崎村の供養塔にも光徳院の僧が関わっていたことが分かっており、八幡村を越えて、江戸時代、隣接していた村々でも活動していたことがうかがえます。

 ところで、天童家墓所の一画に光徳院僧侶のものと見られる墓標が9基あります。ここに集められた経緯は明らかではありませんが、光徳院が天童家の家中寺であったことと無関係ではないのでしょう。ところが、田中村(現在の東田中)の通称デンジョウヤマにも2基、光徳院僧侶の墓標があります。なぜここにも墓が営まれたのか。今後調査で明らかにし、それによって光徳院の活動の実態解明にもつなげたいと考えているところです。