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歴史の風 76 ~神社合祀と多賀城東部の神社~

歴史の風 76

~神社合祀と多賀城東部の神社~

 本市の東部に所在する大代の柏木神社と、現在は塩竈市に編入された牛生の須賀(すか)神社(当時は多賀城村分)には、かつて笠神の仁和多利神社に合祀されていたという歴史があります。これは、神饌幣帛(しんせんへいはく)料削減をもくろんだ明治政府の政策によるもので、須賀神社は明治41年、柏木神社は42年に仁和多利神社に合祀されています。明治42年4月12日、柏木神社と仁和多利神社の関係者から、宮城県知事宛てに提出された「神社合祀願」には、氏子が少なく、今後維持していくことが困難である旨が記されており、表向きは地元からの請願というかたちで進められたことが伺えます。

 この政策は、地域における神社とその氏子たちの関係を考慮したとは言い難いもので、公式的にはよそに合祀された柏木神社と須賀神社でしたが、その社殿は従来の場所にそのまま残され、それぞれの神社で祭祀が執り行われていたといいます。

 当時の仁和多利神社は、笠神字上ノ台にありましたが、昭和17年から多賀城海軍工廠建設にかかる用地買収が始まり、移転を余儀なくされました。神社の社殿は、一時、柏木神社があった大代字元船場に移った後で現在地である大代字中峯に移ったとも、上ノ台から直接中峯に移ったとも言われており、移転の詳細は確実には分かっていません。移転先である中峯の山は大代の戸主会という組織の共有地であり、大代の柏木神社が合祀されていたということもあり、この場所が提供されました。

 須賀神社は昭和22年に、仁和多利神社は昭和25年に合祀が解かれましたが、その痕跡は至るところに残っています。上ノ台から中峯に移した仁和多利神社の建物については、本殿を笠神字花立に移った仁和多利神社が、残された拝殿を柏木神社が引き継ぐことになり、それぞれの足りない部分は後の時代に増築されました。須賀神社については、その棟札がいまだに仁和多利神社に残ったままとなっています。

 現在、これらの三社はそれぞれの地域で、合祀などなかったかのように静かに祀られています。このような光景が見られるのは、人々が中央の政策に翻弄されながらも、鎮守の神への信仰を絶やすことなく、現在まで大切に守り伝えてきた結果であるといえます。