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歴史の風 78 〜日文が書かれた棟札〜

歴史の風 78

〜日文が書かれた棟札〜

 現在塩竈市に編入されている牛生(ぎゅう)は、かつて多賀城市域に存在した13カ村の一つ、笠神村の一部でした。この牛生の小高い丘の上に、建速須佐之男神(たけはやすさのおのかみ)を祭神とし、安永3年(1774年)の笠神村風土記御用書出に祇園社(ぎおんしゃ)の名で記載される須賀(すか)神社が鎮座しています。同社は、明治政府による神社合祀政策のあおりを受け、棟札はいまだに合祀先の仁和多利神社に残されたままとなっています。

 ここに紹介するその棟札は、明治23年の紀年銘を持つもので、オモテ面に記された雨覆(あまおおい)修繕という趣旨や、「天壌無窮(てんじょうむきゅう)国家保穏(こっかほおん)」の文言は特段珍しいものではありませんが、注目すべきは、ウラ面の祭神「建速須佐之男神」の7文字が日文(ひふみ)という特殊な文字で書かれていることです。

 日文とは、一般に神代文字(じんだいもじ)と称される、漢字以前から存在したという文字の一つであり、『国史大辞典』では「日本語を表記する固有の文字(の一種)として、古代に存在したと想定される(主張されている)文字」と記載されています。

 江戸時代後期の国学者平田篤胤(ひらたあつたね)は、全国各地に伝わる日文を精力的に集成し、「神字日文傳(かんなひふみでん)」という書物を著しました。篤胤が研究を始めたのは天保(てんぽう)2年(1831 年)ということですので、日文がそれ以前に存在したことは明らかです。しかし、確実に古代以前にさかのぼる事例はなく、歴史学や国語学では、日文を神代(かみよ)の文字とする考えに否定的立場をとっているのが現状です。

 ところで、徳島県脇町(わきまち)(現、美馬市(みまし))では、町並み保存のための建造物調査で46点の棟札が確認され、そのうち明治3年から39年までの棟札12点に日文があると報告されています。興味深いことに、その12点はすべて、ある一人の宮司が願主となったものに限定されるものでした。

 このような状況から、この謎めいた文字は、ごく限られた神道関係者の手によって書かれた可能性が高く、須賀神社の雨覆修繕の祭事を執り行った祠掌(ししょう)本郷氏も、そのような一人と見ることができます。

 日文という文字については、神代の文字という俗説から一旦離れ、改めて事例ごとに年代や書体の分析を進めることが必要です。基礎的な作業を積み重ねることで、このような文字が創出された時代背景に迫ることができると考えられます。