歴史の風 80 ~鹽竈神社の社家と下馬村~
歴史の風 80
~鹽竈神社の社家と下馬村~
現在、住宅地や店舗が立ち並び、国道45号やJR仙石線が通る下馬地区は、江戸時代に多賀城市域に存在した13の村の一つ、下馬村でした。安永3(1774)年の下馬村風土記御用書出には、村境が縦横とも6丁(約650メートル)と記され、仙台藩譜代の家臣芦立氏の在郷屋敷もありましたが、わずかな農民が少ない田畑を耕しながら暮らす、多賀城市域では比較的小さな村が江戸時代の下馬村でした。
この村には、江戸時代中頃の一時期、鹽竈神社の社家(しゃけ)の一つ鎌田氏が屋敷を構えていました。9代常昌による書出には「下馬村ニ住居仕奉祠仕候」と記されています。
鎌田氏は、室町時代に宮城郡東部を支配した留守氏によって鹽竈神社の社人組織に組み込まれたという古い歴史を持ち、留守氏家臣団の知行高を列記した「留守分限帳」には「宮うと(宮人)の人数」の中に、鎌田酌加太夫を指す「さっくわふん(酌加分)」との記載があります。
鹽竈神社の社家は、その序列が整備された宝永元(1704)年の時点で29家ありましたが、それらの屋敷は、加瀬村(現利府町)に14、塩竈村に13、市川村(現多賀城市)に2つあり、社人の多くは塩竈村と加瀬村に屋敷を構えていたようです。その内、市川村に屋敷があった社家の一つが鎌田家で、同家に伝わる資料によると、宝暦年間(1751~1763 年)、7代常元の時、下馬村に屋敷を構えたとされています。ただ鎌田氏がこの屋敷で暮らした時期は長くはなく、11代有信は寛政年間(1789~1801 年)に加瀬村野中へ屋敷を移し、下馬村を離れています。
かつて下馬の梅の宮には、竹藪の中に将監墓(しょうげんばか)と呼ばれる墓地があり、昭和42年に発行された『多賀城町誌』には、「今は竹藪も次第にうすれ、整地が進んでいるので、この墓地も早晩なくなるであろうが、元来鎌田氏の先祖の墓地である。」と記載されています。将監墓の「将監」とは、13代有和であり、有和の時に明治維新を迎えています。町誌の指摘のとおり、この墓地は下馬地区における人口増加の余波を受け、2年後の昭和44年に他所へ移転しています。往時の景観とともに、下馬村における社家鎌田氏の足跡も失われてしまいました。