歴史の風 85 ~田中村千引観音堂~
歴史の風 85
~田中村千引観音堂~
中世の謡曲(ようきょく)「千引(ちびき)」に、千引の石という巨石と、それを動かした少女が登場します。現在、東田中二丁目の木立の中に祀られている志引観音(または志引神社)の近くには志引石があり、『多賀城町誌』では、この巨石と少女の精を慰めるため観音を勧請した、としています。志引は、現在、小字名として残っていますが、本来は千引でした。
安永3(1774)年の「田中村風土記御用書出(かきだし)」には、この村の仏閣として、「村鎮守 千引観音堂」を取り上げ、宮城三十三番札所の内三十二番目の札所であり、誰がいつ勧進したのかは不明であるが、境内は村共有の空き地で、そこに南向きの三尺四面の堂宇(どうう)があり、その祭日は8月23日であることなどが記されています。
現在、覆屋(おおいや)の中に祀られている堂の規模と向きは、近世社寺建築調査の結果、風土記の記載と一致するものでした。建築部材に残された細部の意匠から、18世紀末、江戸時代後期頃の建築物と報告されています。
観音堂の本尊について、風土記に記載はなく、『町誌』では「一尺許りの木像の観音像」となっています。しかし、現在保管されている木造坐像は、合掌する姿から勢至(せいし)菩薩であって観音菩薩ではありません。勢至菩薩は、観音菩薩とともに阿弥陀如来の脇侍(わきじ)として祀られることが多く、単独で本尊となることは珍しいとされています。仏像調査の所見では、年代は江戸時代後期の様式とされています。
観音堂の北にある坂道の脇に、享保12年に女性集団によって造立された石造の観音菩薩立像があります。日付の8月23日は志引観音の祭日であり、地域の女性によって信仰されていた様子がうかがわれます。
この観音堂には、昭和6年の遙拝所(ようはいしょ)建立棟札があり、多数の氏子から鞘堂(さやどう)、鳥居、手水盤なども奉納されて、その時期に大きく整備されたことが記されています。しかし、その末尾には、菖蒲田浜(七ケ浜町)の何某からこの堂を取り戻した際の世話人名が記され、観音堂が一時この場所から移築されていたという大きな出来事を事務的な文面で記しています。その一方、堂を取り戻して歓喜する人々の姿もこの棟札に垣間見ることができます。