資料館
河北年鑑 1962年


戦災にあった宮城県神社庁も三十五年十一月、仙台市元寺小路に日本様式を加味した洋風鉄筋コンクリート造りのスマートな庁舎が落成したが、地下とも三階建ての全国的にもまれに見る威容である。宮城県多賀城町の奏社宮は三十五年十月に復旧建築がなったのを機会に、本来の陸奥総社宮と改称し盛大に奉祝大祭を祝った。三十六年四月には宮城県岩沼町竹駒神社で敬神婦人会結成大会があげられた。また塩釜神社敬神婦人講の創立三十周年記念式も同社で盛大に行なわれた。なお同社には講中大河原支部会員の一日一円貯金の浄財による大石灯篭一対が献納された。
神社名鑑 昭和38年(1963年)

陸奥総社宮 旧村社
宮城郡多賀城町市川 東北本線 塩釜駅より一・五粁
・祭神:陸奥国一百座の神
・例祭:四月十五日
・本殿:流造 五坪
・境内:二四七〇坪
・宮司:市川 稔
・氏子代表:佐藤熊之助
・氏子:三八五戸
・崇敬者:一万五千人
由緒沿革
陸奥国一百座を合祀せる陸奥総社で、奥州留守職伊沢氏三千刈の斎田を寄せ、後村上天皇の未だ陸奥の大守として多賀国府に在せし時、神護祈念を当社に捧げ給う。伊達氏亦政宗公以来歴世祈願の事あれば藩主自ら社参するを常とせり。東奥鎮護の大社である。
多賀城町誌



陸奥総社宮
総社である。今も諸国の国府の旧地の傍には必ず総社がある。武蔵の府中に総社六所明神あり、駿河の府中に浅間総社があり、また前橋市に総社町、岡山市に総社町がある如きである。
醍醐天皇延長年中、勅して全国の由緒正しい御社三千一百三十二座を神名帳に載せられた。これが延喜式内社である。当時陸奥国には一百座があり、宮城県内に五十社、福島県に三十五社、岩手県に十五社あった。古は国司が幣帛を供進するのが例であったから、百座の神々に幣帛を進めることは不可能であったろう。かくして後には、この神々を分祀して総社を塩釜にいとなんだ。延喜式の以前八十年の弘仁式に塩釜の祭料一万束とあるのはこれである。この総社以前にとりあえず奏上する際に葵社を設けたか、塩釜の神が祭られた後に奏するために奏社が建立されたかは不明である。
鎌倉初期には、奥州留守職伊沢氏が奏社を崇敬して、三千刈の斎田を奉ったという。三千刈は、三百把であり五〇束である。建武の頃には後村上天皇が王子として、陸奥の大守に任ぜられ多賀の国府に在せし時、神護祈念をこの奏社にかけられ、室町時代以後国府の衰微とともに奏社の意義も忘れられ、塩釜神社の末社とされた。
「塩松勝譜」には「塩釜大明神に詣づるものは先づ当社に詣で奏可を待って後行く、否らざれば神享けず」とあるが、これは古くから塩釜神社にゆくことの奏可をうけて出発したことを伝えるものであろう。又「仙台封内名蹟志」に、
総ニ諸社之神威ニ司レ之故参詣者先祷レ于レ此
とあって、他の神に参詣するものは、先ずこの社に祈って然る後にせねばならぬと書いてある。現宮司市川稔氏氏は初代俊光法師より数えて十八代目に当る。天正八年塩釜法運寺の末寺としてこの市川に神奏院を建立し、法印ここに庵を結び社務を掌った。当時神官がおらなかったものと見られ、或は塩釜の神(陸奥総鎮守)の遥拝所をかねた斎宮の社であったとも考えられる。祭典は、例大祭四月十五日、十六日、十七日。秋期例祭は十月十五日、十六日、十七日で月次祭は毎月十五日であった。十五日は塩釜右宮の小祭の日である。
明治初年別当神奏院(六十五代)順泰は還俗して市川氏を称し神官となった。現神官の曽祖父である。明治四十一年村内の南宮、日吉、稲荷、六日霊、荒脛巾、木舟、八幡の七社を合祀し総社とされた。
菊池家については「安永風土記書出し」の「代数在之御百姓」に記され当時肝入であった市兵衛について記すと、彼は姓菊池氏でその祖は藤原五九州の菊池武時の後裔で、足利左馬頭満兼に仕え、下野国愛田郡保田郷居り、享禄二年菊池左馬助の時故あって奥州に下り、会津城主芦名弾正盛隆に仕え三百〆を賜っていたという。
天文九年浪入して宮城郡岩切村に在住した。一時伊具郡蒲原庄保に移住したが、菊池顕家三代の孫重家に至って、慶長元和の間に市川に定住して帰農した。 政宗は肝入を任命する際に、其の地の有力者を選んだ。重家の子圭助は寛永八年に肝入の職についているから、当時市川の実力者であり、最も古い肝入の一人であったろう。圭助以後については藩政時代の項にゆずる。
神道事典 弘文堂


神道大辞典 表紙 臨川書店






平成巡拝記



鹽松勝譜 仙台業書刊行社









