歴史の風 1 〜貞観の大地震と多賀城の復興〜
歴史の風 1
〜貞観(じょうがん)の大地震と多賀城の復興〜
多賀城は、神亀(じんぎ)元年(724年)、仙台平野を一望できる松島丘陵の先端に築かれました。その規模は約900m四方におよび、ほぼ中央には重要な儀式を行う政庁がありました。陸奥国を治める国府として、また、陸奥・出羽両国を統轄し、さらに、東北地方北部の「蝦夷(えみし)の地」を国内に取り込む役割も担った多賀城は、奈良時代には鎮守府も併せ置かれるなど、東北地方の政治・軍事の中心でした。
この多賀城、たびたび戦禍や災害に遭っていたことが、歴史書や発掘調査でわかっています。
一度目は、宝亀(ほうき)11年(780年)に起きた伊治公呰麻呂(これはりのきみあざまろ)の乱による多賀城の炎上です。その後、多賀城は復興するとともに、多賀城外には道路で区画されたまち並みが整備されたことが発掘調査などにより判明しています。
二度目は、この度の東日本大震災と比較されている貞観(じょうがん)11年(869年)に起きた大地震です。この地震について記した『日本三代実録』という歴史書によると、5月26日陸奥国に大地震が発生し、建物や城壁が崩れ落ち、多賀城下まで津波が押し寄せ、人的・物的被害が多大であったことが記されています。
さらに、この記録に続いて、その後の復興に向けた様子も記されています。
貞観11年9月7日、紀春枝(きのはるえだ)という役人を陸奥国に派遣して地震の被害状況を調べさせ、同年10月13日、清和(せいわ)天皇の命令で、地震や津波の被害があった陸奥国に対し税を免除し、自活できない人々には食料を支給しました。その後、神社などで度々祈願し、人々の不安を取り除くことなども行われていました。大地震の翌年には「陸奥国修理府(むつのくにしゅうりふ)」が置かれ、大宰府にいた新羅国(しらぎのくに)の瓦職人が、多賀城を再建するための瓦づくりに従事し、その技術を陸奥国の職人に教えていたことが読みとれます。
これらのことを裏付けるように、多賀城跡の発掘調査では、新羅国の特徴をもつ瓦が出土しています。
津波が押し寄せた多賀城下においても、大地震前と同じように道路によって区画されたまち並みが再建され、見事復興を遂げていたことが発掘調査の成果により判明しています。