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歴史の風 8 ~みちばたの貝塚~

歴史の風 8

~みちばたの貝塚~

多賀城市には、市の面積の約四分の一に広がる多くの遺跡があります。遺跡には、今でも昔の人々が使っていた道具のかけらなどが落ちています。縄文時代の貝塚は、当時の人々の食べかすである貝がらや骨などがまとめて捨てられていることが特徴です。貝がらや骨は、白く風化していて目立つことから、実際に貝塚を訪れてみると、発掘調査を行わなくても遺跡を実感することができます。

特別史跡多賀城跡内に、金堀貝塚という縄文時代の貝塚があります。ここには、今でも貝がらや石の道具(石器)が落ちています。昭和62年、多賀城跡を見学しにきた小学生が、貝がらと縄文土器のかけらを見つけたことが貝塚発見のきっかけになりました。一般の人が発見した数少ない遺跡です。金堀貝塚は、海から遠い丘の上にあります。当時は今よりも海岸線が西側に入り込んでいたために、内陸の丘の上にも貝塚が作られたのでしょう。

金堀貝塚は比較的最近見つかった貝塚ですが、本市の貝塚が注目されはじめたのは古く、およそ百年前にさかのぼります。日本で考古学研究がはじまった当時、日本人のルーツを探るために、縄文時代の人骨の研究が盛んに行われていました。たくさんの縄文時代の人骨を手に入れるために、全国各地で貝塚の発掘調査が行われました。貝塚は、骨がよい状態で保存されていることから注目されていたのです。

大代地区にある大代貝塚(橋本囲(はしもとがこい)貝塚)も、その当時に調査が行われた貝塚のひとつです。大代貝塚は、大正8年に発見され、東北大学教授だった長谷部言人(はせべことんど)によって調査が行われました。長谷部教授は縄文時代の抜歯(犬歯など特定の歯を人為的に抜く儀礼)の研究を全国的な学会で発表し、大代貝塚から発見された人骨についても取り上げています。この研究は、今でも縄文時代の風習を研究する上で欠くことのできない重要なものです。日本の考古学研究が始まったころから、本市にある貝塚が、全国的に注目されていたのです。