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歴史の風 9 ~つぼのいしぶみ道標~

歴史の風 9

~つぼのいしぶみ道標~

多賀城碑の北側、道路沿いに2mほどの高さの碑が立っており、正面、左右側面には次のような文字が刻まれています。
(正面) つほのいしふみ是より二丁四十間すくみちあり
(右側面) 享保十四年己酉五月穀旦和州南都古梅園松井和泉掾
(左側面) 仙臺府下寂照軒頓宮仲左衛門越後屋喜三郎

この碑は「つぼのいしぶみ」までの距離と道を示した道標で、もとは現在地から西へ約290m(二丁四十間)、砂押川にかかる市川橋のたもと付近に立っていました。

「つぼのいしぶみ」とは多賀城碑のことで、江戸時代初めに発見されるとすぐに、歌枕「壺碑」の名で呼ばれたことから有名になり、松尾芭蕉を始め多くの文人たちが訪れています。

道標は享保十四年(1729年)五月穀旦(こくたん)(吉日のこと)、奈良の墨専門店である古梅(こばいえん)園の六代目当主松井和泉掾元泰(いずみのじょうもとやす)(1689年~1743年)が中心となり、仙台城下南町の紙屋主人頓宮仲左衛門(とみやちゅうざえもん)、塩竈の菓子舗主人越後屋喜三郎(えちごやきさぶろう)が加わり、建てられました。

十九世紀初頭に描かれた『奥州名所図会(おうしゅうめいしょずえ)』の「市川邑多賀碑」には、中央下の分かれ道に碑が見えます。これが壺碑への道しるべです。道標は、壺碑を訪ねる人が、分かれ道でも迷うことなくたどり着けるように設置されたもので、これはみちのくを代表する歌枕、壺碑の顕彰を願った三人の熱意で実現したものでした。

元泰は漢詩、俳諧、狂歌、書道に通じ、また中国における製墨の方法を取り入れたとされています。道標を建てた前年の享保十三年(1728年)初夏に、奥羽の名勝探訪の旅に出て壺碑を訪れ、熱心に観察した様子が、古梅園に残る資料からわかります。

つぼのいしぶみ道標は、壺碑への道しるべとしての役目は終えましたが、道標を建てた人たちの思いを今に伝えています。