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歴史の風 6 石碑は語る―多賀城と斎藤実―

歴史の風 6

石碑は語る―多賀城と斎藤実―

多賀城政庁跡の北辺に二つの石碑が建っています。向かって右側は、流麗な草書で刻まれた「明治天皇御聖趾」で、明治9年の明治天皇行幸を記念して建てられました。向かって左側の碑は謹直な筆体で「後村上天皇御坐之處」と刻まれています。
後村上天皇(ごむらかみてんのう)の碑の裏に回ると「子爵齋藤實敬白」と刻まれています。第30代内閣総理大臣の斎藤実(さいとうまこと)がこの碑文を書いているのです。多賀城と斎藤実の関係はこれに留まりませんでした。今回は多賀城と斎藤実、そしてこの両者を結びつけた人物についての逸話を紹介したいと思います。

斎藤実は昭和10年5月に多賀城跡と山王小学校を訪れています。この時に同行した人物の一人に当時の宮城県知事、半井清(なからいきよし)がいました。この半井が多賀城と斎藤実を結びつけた人物です。半井清は、当時、後村上天皇を祀る神社を作るための多賀城神宮(たがじょうじんぐう)創建期成会(そうこんきせいかい)の会長も務めており、この半井などの懇願により斎藤実が総裁に就任しています。

斎藤実と半井清との関係は、斎藤実の総理大臣就任前までさかのぼります。斎藤実は日本が朝鮮を支配するために置かれた朝鮮総督府(ちょうせんそうとくふ)の総督を務めていました。この時、同じく朝鮮総督府の重要ポストに半井清もあったのです。二人の関係はこの時に築かれたのでしょう。

建碑や神社創建といった後村上天皇顕彰の事業は、神聖なる天皇を中心に結束する、あるべき日本人の姿を指し示すという当時の国策の一環として企画されたものです。南北朝時代の南朝二代目の天皇である後村上天皇が滞在したと考えられていた多賀城は、まさに顕彰すべき場所でした。しかし大規模な顕彰事業には、国や中央政界の力が必要です。斎藤実が多賀城と関わった政治的な背景はこの点にあります。朝鮮総督府時代に築かれた半井清との人間関係が無ければ、これが実現することはなかったでしょう。
斎藤実は、昭和10年の多賀城訪問の9カ月後、昭和11年の二・二六事件により、この世を去ることになります。