歴史の風 5 石碑は語る―後村上天皇―
歴史の風 5
石碑は語る―後村上天皇―
多賀城政庁跡の正殿の北側に、「後村上天皇御坐之處」と刻まれた石碑が建っています。
後村上(ごむらかみ)天皇(1328年〜1368年)は、南北朝時代の天皇です。名を義良(のりよし)親王としていた幼少時代、「多賀国府」に下向していたという記録が残っています。昭和初期、「多賀国府」は古代の多賀城と同じ位置にあったと考えられていたため、この地に石碑が建てられました。
義良親王は、なぜ都を離れて「多賀国府」にやってきたのでしょうか。
元弘(げんこう)3年(1333年)、鎌倉幕府を滅ぼした後醍醐天皇は、自らが主導して行う親政を始めました。建武新政(けんむしんせい)と呼ばれています。一方、倒幕で功績をあげた足利尊氏(あしかがたかうじ)のもとには、東国出身の武士達が結集し、大きな勢力となっていました。これは、天皇親政を目指す後醍醐天皇にとって大きな脅威でした。足利氏の勢力を抑えるために、東国の支配を強める必要が生じていました。
そこで後醍醐天皇は、自らの権威を東国に示すために、皇子である義良親王をむつのくに陸奥国(むつのくに)に派遣しました。この時、義良親王はわずか6歳でした。また、側近の北畠顕家(きたばたけあきいえ)を陸奥守(むつのかみ)に任命し、東国の運営を任せました。東国統治は、この二人が要となって進められていったのです。
建武2年(1335年)、義良親王は、後醍醐天皇に反旗を翻した尊氏から京都を奪還するため、顕家と共に「多賀国府」から出陣しました。尊氏が九州へ敗走した後は、東国統治の重要性から義良親王と顕家は再び陸奥国へ帰還しました。しかし足利氏は次第に勢力を盛り返し、陸奥国へと侵攻してきます。そして延元(えんげん)2年(1337年)正月、義良親王と顕家はついに「多賀国府」から離れることを余儀なくされ、霊山(りょうぜん)(福島県伊達市)に移ることになるのです。
その後、義良親王が「多賀国府」に下向したということは長い間忘れられていました。
しかし明治中期、国語学者大槻文彦(おおつきふみひこ)の研究によって、多賀城と義良親王のつながりが注目されるようになりました。そして昭和10年(1935年)4月、後村上天皇の下向を記念した石碑が、多賀城跡に建てられたのです。