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歴史の風 15 ~多賀城市の古地形~

歴史の風 15

~多賀城市の古地形~

本市の地形は、多賀城跡の立地する丘陵部とそれ以外の沖積地(ちゅうせきち)(低地)に大きく分けられます。今回は、この沖積地がいつ、どのように形成されて現在の地形になったのかを考えてみます。

今から約1万8千年前(後期旧石器時代)は、現在より平均気温が約7度も低いシベリアのような気候でした。陸地が氷河に覆われたため、地球全体の海水面が下がりました。仙台湾岸の海水面は、今よりも100メートルほど低く、海岸線は40~50キロメートルも沖合にあったとされています。このころ、沖積地は、深い谷底のような地形でしたが、1万年前ころ(縄文時代の初めころ)から、急速に温暖化が始まりました。そのため、海水面が上昇し、海岸線は陸側へと入り込み、最大で利府、岩切付近まで到達しました。沖積地は外洋に面した内湾(入り江)になっており、縄文人たちの格好の漁場でした。この内湾は5千~4千5百年前に形成された南北に延びる浜堤(ひんてい)(海岸線にそって砂が堤防状に堆積した地形)によって閉ざされ潟湖(せきこ)(海の一部が外海と隔てられてできた浅い湖)となりました。潟湖の位置は、時がたつにつれて徐々に海側へと縮小しました。

なぜ潟湖が小さくなっていったのか。それには旧七北田川と旧砂押川が関係しています。七北田川が現在の流路になったのは、江戸時代に付け替え工事がなされたからで、それ以前は山王・新田地区の南側を東西方向に流れていました。両河川は、弥生時代以降、頻繁にはんらんを起こし大量の土砂を上流より供給していたのです。特に弥生時代後半~古墳時代前半には、厚さ3メートルもの土砂がもたらされ、それによって川沿いに微高地(自然堤防)が形成されましたが、それより下流に位置する潟湖は埋まり続けました。

平安時代に入ると、潟湖は国道45号の北側の六貫田から南側の町前地区あたりに縮小し、鎌倉・室町時代には沼地化しました。江戸時代には、低地の水位が低下し、潟湖は水田へと変わりました。現在の本市の風景は、このような複雑な変遷を経て形成されたものでした。