1. HOME
  2. コラム
  3. 歴史の風 17 ~留守氏と八幡氏~風景~

歴史の風 17 ~留守氏と八幡氏~風景~

歴史の風 17

~留守(るす)氏と八幡(やわた)氏~風景~

今回は、中世(おもに鎌倉・室町時代)に多賀城市域を治めていた留守氏と八幡氏の歴史上の関わりについて紹介します。留守氏は、鎌倉幕府によって陸奥国の長官である「陸奥国留守職(るすしき)」に任命された伊沢家景を初代とします。職名にちなんで代々留守姓を名乗り、宮城郡東部における有力な領主となりました。

一方、八幡氏は国府に勤めていた役人出身の家柄で、多賀城市八幡を中心に、仙台市中野から蒲生に至る地域を治めていました。両者は、室町幕府成立時の争乱の時代に、戦いにおよびます。これは、幕府内の権力抗争が陸奥国内に波及したもので、留守氏は将軍足利尊氏方に、八幡氏はその弟で実力者の直義(ただよし)方に味方しました。戦いは仙台市の岩切城を舞台に、多くの武士を巻き込んで行われました。その結果、直義方が勝利し、留守氏は一時没落してしまいます。しかし、この抗争は最終的には尊氏方が勝利したことから、留守氏はまもなく再興されることになります。

ところが、ここで八幡氏が留守氏の土地を押領して返さないという事件がおきます。幕府から派遣された長官が間に入って土地の返還を求めましたが、八幡氏はなかなか応ぜず、結局返還されるのはこれから十三年後のことになります。これには、八幡氏が結果的には敗者側に味方したことで、別の領地の一部を没収されたという事情があったようです。

この後、両者が婚姻を結び協調関係を築いたことや、逆に戦いにおよび、留守氏が勝利したという話も伝わっています。そして、八幡氏は、他氏との争いや後継ぎ問題から、徐々に力を失っていきます。その結果、室町時代末期の記録に、留守氏家臣団の一員として、八幡氏の名前を見出すことができるのです。

一方の留守氏も、南から勢力を拡大してきた伊達氏に強要され、後継ぎの養子縁組を受け入れます。これは緩やかながら家臣化を意味します。伊達氏からの入嗣(にゅうし)は三度におよび、三人目の留守政景は、伊達政宗の叔父にあたります。政宗に代わり伊達軍を指揮することもあり、その創業を大いに助けました。この功績により伊達姓を名乗ることを許され、水沢(現岩手県奥州市)に移ります。そして、江戸時代には、高い家格(かかく)を有する水沢伊達家として、藩内で重きをなすことになるのです。