歴史の風 18 ~多賀城市の貝塚から~
歴史の風 18
~多賀城市の貝塚から~
宮城県は、全国有数の貝塚密集地帯です。本市でも5カ所の貝塚が確認されており、大代地区に多くあります。
近代の日本考古学は、明治10年(1877年)、アメリカ人の動物学者モースが東京都大森貝塚を発掘調査したことに始まります。明治時代の後半ころになると、モースに続けといわんばかりに、宮城県でも続々と貝塚の調査が行われるようになりました。
大正8年(1919年)、本市の考古学研究にとって大きな出来事がありました。東北大学医学部の長谷部言人(はせべことんど)によって、大代(橋本囲(はしもとがこい))貝塚と桝形囲(ますがたがこい)貝塚が調査されたのです。
大代貝塚では、縄文時代の人骨が発見されました。この発見は学術雑誌を通して全国的に紹介され、日本人のルーツを探る研究に大きな貢献を果たしました。
桝形囲貝塚からは、弥生時代の土器の底に稲もみが押し付いた跡が、資料を整理していた東北大学医学部の副手である山内(やまのうち)清男(すがお)によって発見されました。この発見により、山内は、東北地方の古代文化が遅れていたというそれまでの学説とは異なり、関東地方や近畿地方と大差ない時期に農耕中心の生活が行われ始めたことを示しました。この時発見された土器の写真は、戦後の社会科の教科書に掲載され、全国的に知られるようになりました。
この二つの貝塚の調査は、国指定史跡の七ケ浜町大木囲(だいぎがこい)貝塚や東松島市の里浜貝塚とならび、宮城県でもかなり早い時期に行われた学術調査です。日本考古学の源流における本市の貝塚の存在は大きなものであり、全国の考古学者や人類学者の注目を集めました。現在、これらの貝塚は、道路や住宅の地下で静かに眠っています。