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歴史の風 21 ~貞山運河とは~

歴史の風 21

~貞山運河とは~

貞山運河は、阿武隈川河口から塩竈湾まで、全長31.5キロメートルにおよぶ日本で一番長い運河です。北の東名運河、北上運河を合わせた運河群としての総長は、46.4キロメートルにおよびます。

貞山運河の開削は、江戸時代の初め、仙台に城下町を建設するのに先立ち、阿武隈川と名取川の間に内川が開削されたことに始まります。木材などを筏(いかだ)で曳(ひ)いたことから、この運河は、後に「木曳堀(こびきぼり)」と呼ばれました。

その後、仙台城下への物資輸送が盛んになると、万治年間(1658年~1661年)までに塩竈湾―大代間、次いで寛文10年~13年(1670年~1673年)に大代―蒲生間と、多賀城市域を通る「御舟入堀(おふないりぼり)」が順を追って造られました。さらに、蒲生から仙台城下へ物資を輸送するため、七北田川沿いの福室から苦竹まで「御舟曳堀(おふなひきぼり)」が開削されました。

これらの運河の開削は、伊達家家臣和田織部房長と佐々木伊兵衛によって進められ、工事の無事完成を祈願して奉納された石灯籠が鹽竈神社境内に残されています。

明治になると、士族の救済事業として七北田川―名取川間の「新堀」の開削が行われ、その後、日本最初の西洋式港湾建設事業である野蒜築港事業に伴い、運河の大改修が行われました。

「貞山運河」という名称については、明治になって、発案者である藩祖伊達政宗の偉業を讃えるため、政宗の法名「瑞巌寺殿貞山禅利大居士」にちなんで「貞山堀」と命名されたと言われています。それを裏付けるように、明治年の県庁文書には「貞山堀」の名称が見られます。

明治22年、宮城県は「運河取締規則」を定め、名称を「貞山堀」から「貞山運河」へと変更し、現在もこの名称で親しまれています。

(昭和40年、新河川法により多賀城市域の運河については、大代一丁目の橋本橋の北は「旧砂押川」、南側は「砂押貞山運河」という名称になっています。)

※平成25年度の「歴史の風」は、貞山運河に関わる歴史的な遺産・事柄・人物について紹介します。