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歴史の風 23 ~和田房長~

歴史の風 23

~和田房長~

 御舟入堀(おふないりぼり)や舟曳堀(ふなひきぼり)の開削は、藩を挙げての一大事業であり、その責任者として事業を推進したのが、当時藩の出入司(しゅつにゅうづかさ)として財政部門を担っていた和田房長(わだふさなが)です。

 和田氏は本姓が秦(はた)氏であり、渡来人の流れをくむ氏族です。もとは大和国(現奈良県)の武士であり、房長の養父為頼が・歳の時に伏見で政宗に見出され、伊達家に仕えました。家格は藩内では六番目の着座であり、禄高も房長の代で千五百三十石余を拝領し、藩内では上級に属する家柄でした。

 房長ははじめ半之助、後に織部(おりべ)を名乗ります。寛永年中(1624~1643年)二代藩主忠宗の時に小姓組として出仕し、承応元年(1652年)には目付となり、万治2年(1659年)三代綱宗の時に小姓頭となっています。寛文元年(1661年)四代綱村の時に出入司となり、一時病を得て職を免じられましたが復職し、およそ39年間、藩主三代に仕えたとされています。

 御舟入堀と舟曳堀の開削にあたり、工事責任者である房長と工事担当者である佐々木伊兵衛は、寛文10年7月(1670年)にそれぞれ鹽竈神社に願文を奉納しています。その中には、藩の記録には見られない工事に関わる具体的な内容が含まれています。

 房長の願文には、御舟入堀の開削が藩祖政宗の時代に考案された事業であったこと、藩命によって御舟入堀と舟曳堀の両方の工事を行ったことが記されています。一方、佐々木伊兵衛の願文には、房長が御舟入堀開削の計画を立案したのが寛文4年(1664年)3月であることや、計画には約四年を要し、幕府に届出て許可が下ったのが同10年(1670年)4月、同年8月17日に起工したことなどが記されています。

 ところで、市内留ケ谷の向泉院には、「慧香院殿華顔浄蓮大姉」という女性の法名を刻んだ元禄6年(1693年)5月5日の墓碑が残されています。寺伝によれば、慧香院は和田房長の側室とされ、向泉院がある場所は、かつてその側室が庵を結んでいた場所とも伝えられています。和田房長が本市に残した数少ない足跡といえます。