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歴史の風 24 ~御舟入堀と街道~

歴史の風 24

~御舟入堀と街道~

 御舟入堀(おふないりぼり)は、仙台城下へ物資を輸送するために開削された運河で、和田房長(わだふさなが)が鹽竈神社に献納した石灯籠から万治3年(1683年)に完成したことが判明しています。しかし、これにより塩竈に物資が荷揚げされなくなったことから、貞享2年(1685年)、塩竈湊を保護する法令が発せられます。そこには、「勝手次第に宮城郡諸浜に荷を揚げていた漁船や商人船をはじめ、五十集(いさば)(魚介類)船、自国および他国の材木船とも、すべて塩竈湊にのみ着岸し荷を売買すること」が記されており、米以外の物資はすべて塩竈湊に降ろされることになりました。その荷は、馬に付けかえ、塩竈街道を利用して、仙台城下まで運ばれるようになります。

 ところが、その5年後の元禄3年(1690年)、宮城郡の塩竈を除く八か浜(花淵・吉田・代ケ崎・大代・東宮・蒲生・松ケ浜・菖蒲田)の漁民から「風の向きや日和、潮の流れによっては塩竈に入ることが難しく、生魚の活きが落ちてしまうことがあり、漁民・商人が困窮してしまうので、貞享2年以前のとおり勝手次第に塩竈以外の浜々に入らせてほしい」との訴えが出されます。宮城郡諸浜の多くは藩主の食事に供する魚を納める必要があり、城下へ魚を供給する大切な役割を担っていました。このようなことから、藩は、暑い季節に生魚の鮮度が落ちることを避けるため、元禄3年10月以降においては、3月1日から8月いっぱいまで、諸浜への入港を許すこととなりました。そこに揚げられた魚介類は、七ケ浜―大代―八幡―中野―福室―苦竹を通る「浜街道」と呼ばれる街道を利用して城下に運ばれました。

 嘉永5年(1852年)の大代村の村掟には、「魚介類等を運ぶ際、馬の背に積んだ荷が落ちそうになったり、荷を落としてしまったりした時には、お互い知らない振りをせずに、力を合わせて手伝いをしなけれ)ばならない。輸送の途中で喧嘩口論がおきた時には居合わせた者が仲裁しなければならない」といったことが記されています。馬による輸送が盛んに行われ、それに関する具体的な取り決めがなされていたことがわかり、御舟入堀と浜街道の結束点である大代村の様子を垣間見ることができます。