歴史の風 25 ~御石改所~
歴史の風 25
~御石改所~
大代村を通る御舟入堀(おふないりぼり)沿いには、米穀の密売買を取り締まったり、年貢米の輸送や藩の許可する米穀の出入りを監視する役目を担った「御石改所(おんこくあらためじょ)」が置かれていました。明治20年(1887年)完成の『仙台藩租税要略』という、仙台藩の租税制度等の諸法令を集録した本には、藩内の御石改所として39カ所が記され、宮城郡では塩竈、蒲生、磯崎、寒風沢と並び、「宮城大代」が見えます。設置場所を見ると、江合川、鳴瀬川、北上川、三陸海岸、牡鹿半島、仙台湾沿岸、阿武隈川といった、仙台藩領の交通の要地に置かれ、取り締りがいかに厳重だったかが知られます。米を最重要商品としていた仙台藩は、早くから取り締まりに力を入れ、享保17年(1732年)に出された密石取締令では、他領は勿論、領内でも他の郡や村に米を密売した者を処罰するといった、厳しい内容を打ち出しています。
大代村の御石改所について、安永3年(1774年)の「大代村風土記御用書出」には「御番所」と記されています。その運営のため、藩の御用船である御石米瀬取船(おんこくまいせとりぶね)8艘、小船7艘があり、人足として、村人を出さなければなりませんでした。その勤めを担ったのが、御番所の周り、軒からなる「茶屋敷」の人々です。住人は1日交替で番所に詰め、瀬取船の一切の世話も引き受けていました。さらに大人数が必要なときには、決められた役割の人が、16軒全ての住民に知らせることもあったようです。このような任務を請け負う代わりに、年貢・諸役が免除されていたのです。さらに「御献上品」として白魚、蜆(しじみ)、鰍(かじか)、鰻 (うなぎ)の4品も、茶屋敷の人々が番所の詰役(つめやく)の手を通して上納し、藩主などの副食の一部にあてられました。このような納入義務も、一般の諸役が免除された理由の一つです。なお、風土記には「茶屋町」とも表現されており、家並みが町屋風に並んでいたことを示しています。その中には酒屋2軒、菓子屋3軒などと見え、船で働く人たちの休息場があったことがわかります。御舟入堀沿いにある、大代村独特の姿が浮かび上がってきます。