歴史の風 26 ~江戸時代の大代村~
歴史の風 26
~江戸時代の大代村~
御舟入堀が南北に縦断する大代村は、現在の多賀城市域にあった他の村とは異なり、漁村としての性格をもっていました。今回は、そうした大代村の様子について、仙台藩が安永2年(1773年)から八年間かけて、領内の村々に提出させた、村勢要覧ともいうべき『風土記御用書出』を中心にみてみましょう。
まず、村の名前について、慶長(1596~1614年)以前は、「大城」と書いていたと記されています。
村高や家数などに続いて、「御番所」があったという記載があります。これは、河川や海岸に置かれ、米穀の密売買の取締りなどを行う「御石改所(おんこくあらためじょ)」という藩の役所のことで、御番所に当番として詰め、さまざまな役目を請け負うのが、周辺の「茶屋敷」16軒の人々でした。加えて「一 御献上品 春ハ白魚 夏ハ鰻 秋ハ鰍(かじか) 冬鰻ノ四品」
蜆
と記されており、漁村としての性格を垣間見ることができます。
村の産物であった4種類の水産物は、藩主への献上品として、「茶屋敷」の人々が御番所詰役に上納し、原町にあった代官所に運ばれました。そして、仙台城下肴町(さかなまち)(大町の北にあった、魚介類を独占的に扱う商人町)の五十集(いさば)商人を通じて藩に納められ、藩主などの副食にあてられたのです。
このように大代村は、季節ごとの魚介を毎日仙台城下に供給するという、重要な役割を担っていました。『鹽松勝譜(えんしょうしょうふ)』という江戸時代の書物に、漁村と農村の両方の側面があると記されている村の姿が、ここからも窺えます。他の村には見られない、「舟十六艘」という記載も、こうした様子を裏付けるものといえます。
また、塩竈湊に陸揚げされ、仙台城下の材木商に駄送されていた材木が、文化・文政(1804~1829年)頃になると大代村に多く陸揚げされるようになります。駄送の距離の短さと、駄賃の安さが要因であったと考えられ、その際には、村で飼われていた「馬弐拾五疋(ひき)」が使われたのでしょう。(『風土記御用書出』は『多賀城市史』に掲載されているものを参照しました)