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歴史の風 41 ~新田の倉と農家のくらし~

歴史の風 41

~新田の倉と農家のくらし~

 多賀城市の前身である多賀城村は、明治17年(1884年)に13の村が統合してひとつの村になりました。その中の旧新田村は、七北田川の東岸に発達した自然堤防(微高地)上に営まれた集落です。今回は、明治から昭和にかけての人々の暮らしぶりはどのようなものだったのか、倉と倉に保管されていた資料から探ってみましょう。

 新田地区で確認された倉は18棟あり、そのうち土蔵が1棟で、そのほかはすべて板倉でした。建築年代がわかるものでは、江戸時代末期の弘化(こうか)4年(1847年)に造られたものが一番古く、明治3年、14年、25年と続きますが、大半は昭和に入ってから建築されたものです。

 地区の中央部に位置する倉からは、糸取り器、糸車、機織(はたお)り機など養蚕(ようさん)に関係する道具が発見されました。

 明治に入ってから宮城県が政策として養蚕を奨励し、多賀城村は、宮城郡内で旧七北田村などに次いで盛んだったようです。地元の方のお話によると、かつて新田地区にはカイコの餌(桑の葉)をつくる桑畑が広がっていたそうです。

 当時、農家にとって養蚕業は貴重現金収入源であり、「お蚕様」(かいこさま)と呼んで繭(まゆ)になるまで大切に育てました。カイコの飼育には母屋の囲炉裏(いろり)のある板間を使い、その隣部屋では機織りをし、縁側(えんがわ)では糸取り器で生糸をつくっていました。

 倉の中には、糸巻きに巻かれた絹(きぬ)糸も保管されていました。藍(あい)色と白色の2種類の絹糸があり、当地でも藍染が行われていた可能性を示しています。

 このように、市内の倉には明治から昭和にかけての暮らしのようすを伝える資料が数多く残されています。大事にして後世に伝えていきたいものです。