歴史の風 45 ~八幡神社~
歴史の風 45
~八幡神社~
今月号から市内の神社を紹介していきます。
八幡(はちまん)神社は、延暦(えんりゃく)年中(782~806年)に坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が勧請(かんじょう)したと伝えられる神社です。
当初、歌枕「末の松山」の西方「古舘」と呼ばれる台地に鎮座していたことから「末松山八幡宮」と呼ばれ、その南にある馬場という地区は、祭礼の際、流鏑馬(やぶさめ)が行われた場所と伝えられています。
また、天喜(てんぎ)・康平(こうへい)年間(1053~1065年)、源義家(みなもとのよしいえ)が鞢(ゆがけ)を奉納したことから鞢八幡、さらには、八幡の地がかつて「興井郷(おきのいのさと)」と呼ばれていたことから「沖八幡」とも呼ばれていました。
現在の宮内地区に移転したのは、鎌倉時代に八やわた幡氏が古舘の地に館を築いたことによるといわれています。
八幡神社の別当「末松山般若寺(はんにゃじ)」が安永(あんえい)3年(1774年)に提出した風土記御用書出(ふどきごようかきだし)や、八幡宮の棟札を写したといわれている「宮城郡末松山八幡宮社領分」(伊達家文書)からは、16世紀中葉以前、千軒以上の門前町をもつ大社であったことを知ることができます。また、風土記御用書出には、この門前町が津波により失われ、加瀬村(現利府町)に移住した町場の人々が、新しい町を八幡町と称したとも記されています。
貞享(じょうきょう)元年(1684年)、藩主伊達綱村の計らいにより八幡神社には、金五〇切と社地の材木が与えられ、社殿の建て替えが行われました。神酒(みき)と流鏑馬の射手(いて)に対する酒もこの年から与えられるなど、特別な待遇を受けるようになりました。
宝永(ほうえい)4年(1707年)、この八幡神社も火災により焼失し、文政(ぶんせい)3年(1820年)、安政(あんせい)3年(1856年)に神社は修復されたことが明治40年の「神社由緒調」(宮城県庁文書)に記されています。
明治になると、市内の神社では最も格の高い郷社(ごうしゃ)に列せられました。しかし、アジア・太平洋戦争時には、多賀城海軍工廠(かいぐんこうしょう)の建設によって八幡字窪の仮殿に遷宮しましたが、戦後再び現在の場所に戻り、今日に至っています。