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歴史の風 47 ~陸奥総社宮~

歴史の風 47

~陸奥総社宮~

 塩竈でるときや 大手ン振りよ 総社宮から アリャ胸勘定

 これは、江戸時代につくられた「塩竈甚句(しおがまじんく)」と呼ばれる民謡で、鹽竈神社落慶(らっけい)の祝典を上げた際、余興として文人酔客らにつくらせたものが起源と言われています。

 この民謡に登場する総社宮こと陸奥総社宮は、陸奥国の延喜式内社(えんぎしきないしゃ)(※)百社を祀る神社で、多賀城東門跡の北東に鎮座しています。

 江戸時代には奏者明神社・奏社宮などと呼ばれ、鹽竈神社の十四末社の一つで、市川村の村鎮守でもありました。

 神社に残されている棟札からは、貞享(じょうきょう)4年(1687 年)鹽竈神社末社「奏者明神宮」として再興、元禄14年(1701年)修理、正徳(しょうとく)6年(1716年)造営、享保(きょうほ)19年(1734 年)拝殿が造営されたことがわかります。

 名称についても、貞享4年から正徳6年までの棟札には「奏者明神宮」「奏者神祠」「奏者明神社」、享保19年に拝殿が造営された際には「奏社宮」と記されており、当初は「奏者」、後に「奏社」になったことがわかります。

 文政(ぶんせい)5年(1822年)に仙台の儒学者舟山萬年の記した『鹽松勝譜』には、鹽竈神社に参拝する際には奏社宮を詣でてからでないとご加護がないと記されています。当時は、鹽竈神社参拝に行くということを奏社宮に申し述べ、それからお参りするのが順序とされており、その習わしは、歴代藩主から庶民に至るまで守られ、現在でもそのように参拝している人々がいます。

 毎年4月中旬には、五穀豊穣を祈る例大祭が開催されます。この祭礼は、旧暦3月10日に行われていたことが江戸時代の記録から知ることができます。

 祭礼では、氏子達を担ぎ手とする神輿が鳥甲(とりかぶと)をかぶった猿田彦(さるたひこ)の先導のもと、鉦(かね)と太鼓の音を響かせながら神輿が塩竈街道を通り、氏子区域を巡行します。もともと、市川集落のお祭りでしたが、明治44年に新田・南宮・山王・高橋にあった5社が合祀されたことにより、塩竈街道沿いの市川・南宮・山王を経て、新田・高橋の集落にも神輿渡御が行われるようになり、今日に至っています。※ 平安時代中期に編纂された法律の施行細則「延喜式」に記載されている神社