1. HOME
  2. コラム
  3. 歴史の風 46 ~喜太郎稲荷神社~

歴史の風 46 ~喜太郎稲荷神社~

歴史の風 46

~喜太郎稲荷神社~

喜太郎稲荷神社は、八幡2丁目のかつて「台」と呼ばれた地にあります。天童神社とも称されるこの社は、仙台藩準一家天童氏の氏神として創建されました。
安永3年(1774)の八幡村風土記御用書出には、この神社に関して
一 天童神社 一 小名 久蔵様御拝領地之内 台 一 社 辰巳向壱間作
とみえます。「久蔵様」とは九代目倫頼(ともより)のこと。社殿は辰巳(たつみ)すなわち東南向きで正面・側面とも一間の造りであると記されており、現在の社殿もこの記載と同じ造りとなっています。

天童氏はもと出羽国の天童城主でしたが、天正12年(1584)、頼澄(よりずみ)が最上氏との戦いに敗れて陸奥国に落ち延び、やがて伊達政宗に仕えて八幡に所領を与えられました。喜太郎稲荷神社は天童氏が八幡に移り住んだ際、この地に勧請(かんじょう)されたものです。

天童氏の故地である山形県天童市には、かつて喜太郎稲荷神社が四社あったといわれ、そのうち三社は天童氏の祖頼直(よりなお)が城を築いた舞鶴山(まいづるやま)周辺に現存し、残る一社が八幡に移されたものだということです。こうした経緯については、風土記御用書出にも「勧請 久蔵様御先祖、羽州天童御居城之節、御勧請被成置、慶長年中当村御在所御拝領之節、御遷宮之由申伝候事」と記されています。

八幡の喜太郎稲荷神社境内にある由来書きには「天童頼久(よりひさ)公(後の頼澄)が草刈将監(くさかりしょうげん)をはじめとする家臣たちと陸奥国をめざして関山峠を越える際、暗闇で難渋していたところ、喜太郎という忍者が現れ灯をともして愛子(あやし)まで道案内してくれたことから、命の恩人として祀った」とのいわれが刻まれています。天童氏の守り神として、喜太郎稲荷神社は、今も八幡の地であつく敬われています。