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歴史の風 51 ~南宮神社~

歴史の風 51

~南宮神社~

 南宮集落の北に広がる水田の中に「色の御前」という小字があり、木立に囲まれて南宮神社が祀(まつ)られています。安永3年(1774年)の「南宮村風土記御用書出」には「南宮明神社」と見え、村の名前はこの神社の名にちなむものとされています。社地は縦9間、横7間、社殿は5尺四方の南向きで、鳥居は東南の方向を向いて立ち、祭日は3月9日でした。神社は別名「紫明神」といい、そのことから「色の御前」とも言われるようになったとあります。さらに、時期は不明としながら、美濃国不破(み ののくにふわ)郡にある金山彦命を勧請(かんじょう)したのが、南宮神社であると書き記しています。「色の御前」について、『多賀城町誌』や『多賀城六百年史』は次のような伝説を紹介しています。

 神社には、金山彦命(かなやまひこのみこと)、金山姫命(かなやまひめのみこと)が祀られていましたが、八幡村に鎮座していた若佐姫命(わかさひめのみこと)という女性の神様が、大津波によって南宮村まで押し流され、南宮神社に合祀(ごうし)されることになったことから、「色の御前」と呼ばれるようになったとのことです。

 南宮神社は明治43年(1910 年)、日吉神社(ひよしじんじゃ)(山王村)などとともに市川村の村社である奏社宮(そうしゃのみや)に合祀されました。氏子がいずれも少数で、今後、神社を維持し続ける見込みがなく、祭祀(さいし)も行われなくなってしまうからというのがその理由でした。こうした動きに関し、町誌が伝える伝説によると、その翌年、村に疫病がはやり、託宣を聞くと、合祀された先が男性の神様ばかりで居心地が悪く、元の場所に戻してほしい一心でたたりをなしたことが分かりました。そこで村人たちが社殿を建て直し、祀ったということです。

 広々とした水田の中、南宮神社を囲む木立の姿は鎮守の森であり、塩竈街道に面して家々が立ち並ぶ南宮の集落とともに、江戸時代から続く景観を今に伝えています。