歴史の風 55 ~冠川神社~
歴史の風 55
~冠川神社~
冠川(かむりがわ)神社は、本市の西部、新田字南関合に鎮座する神社です。冠川とは七北田川の別名で、神社のある場所は、七北田川まで100メートル足らずという、川沿いの地です。
中世の多賀城市を語る上で欠かせない資料『留守家文書(るすけもんじょ)』には、「河原宿五日市場(かわらしゅくいつかいちば)」「冠屋市場(かむりやいちば)」の二つの市場名が登場します。このうち、神社のある辺りが、冠屋市場の故地とする考えがあり、境内に2基の板碑があるのも、中世との関わりを伺わせます。
安永3年(1774 年)に作成された新田村風土記御用書出によれば、社殿・鳥居ともに南向きと記されています。社殿の規模は3尺四方、社名は村鎮守「稲荷社」で、「稲荷」と呼ばれた場所に立っていました。祭日は9月15日でした。
平成26年度に実施した陸奥総社宮(むつそうしゃのみや)の建築学的調査の際、稲荷社の棟札2点を確認しており、1点には明治10年9月に「稲荷神社本宮」を「改正」すなわち修理したことが記され、もう1点には明治21年9月に「冠稲荷神社奥殿新建立」とあり、行き届いた管理がなされていたことが分かります。しかしながら、明治43年6月、神社は、南宮村社南宮神社、山王村社日吉(ひよし)神社、高橋村社大日霊賣(おおひるめ)神社、南宮村八幡神社とともに市川村の村鎮守奏社宮に合祀されることになりました。しかし合祀の後もその社地は、「常に村人の拠り所で、由緒ある聖地であり続けた」と境内記念碑に記されているように、地域の人々にとって大切な場所でした。合祀から16年後の大正15年3月、地元新田の女性たちが本堂を再建し、さらにはそのお堂を守る鞘堂(さやどう)が昭和59年に、地元の男性たちによって建立されました。加えて、現在社殿が建つ場所についても、昭和41年、新田区から有償で譲り受け、社地として永久に保存することを地元有志で決め、現在に至っています。