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歴史の風 57 ~浮島神社~

歴史の風 57

~浮島神社~

 JR東北本線国府多賀城駅の北約300メートルのところにある小高い丘が歌枕「浮島」で、ここに浮島神社が鎮座しています。

 平安時代の承保(じょうほう)から承暦(じょうりゃく)年間(1074~1080年)、陸奥国の長官であった橘為仲(たちばなのためなか)は、浮島神社を詠んだ歌を残しています。

 また、12世紀の文書集である『朝野群載(ちょうやぐんさい)』には延久(えんきゅう)6年(1074 年)のこととして、御体御卜(ごたいのみうら)(天皇の身体の平安を占う儀式)の結果、延喜式外社の陸奥国浮島社・塩竈社・鳥海社に祓いを行わせるという記載があり、ここでも浮島神社の存在が確認できます。

 一方、安永3年(1774年)の『浮嶋村風土記御用書出』には浮島神社の名はなく、神社としては「村鎮守 多賀の神社」「大臣神社」の二社が見えるのみです。多賀神社はかつて「多賀御城主」が近江国(滋賀県)の多賀神社を勧請したもので、奥州百座、宮城郡四座のうちの一つと伝えられているとし、社地は竪90間・横40間、社・鳥居とも南向きで、「多賀神社」と書かれた額が掲げられていたこと、9月15日が祭日であることなどが明記されています。

 ところが元禄初め(17世紀末)頃の鹽竈神社末社関係史料のうち、浮島村肝入(きもいり)や組頭(くみがしら)などの連名による文書には、浮島村の多賀神社は浮島明神の名で伝えられてきたが、社の老朽化による新築の際、湯立ちをして託宣を行ったところ、多賀の明神としてあがめるようお告げがあったので名前を改めたと述べられています。さらに、祭礼御用を勤める人が替わり、祭日もお告げによって変更されたともあります。

 こうした村側の記録からは、村鎮守はもともと浮島明神と称していたこと、藩政確立期頃に神社の名称や祭日など変化したことなどが伺えます。

 明治4年(1871年)、多賀神社は浮島村の総鎮守として村社「浮島神社」となり、明治末年の全国的な神社合祀(ごうし)の波にものまれることなく、今なお氏子や地域住民から敬われています。