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歴史の風 63 ~平城宮跡·大宰府跡の保存~

歴史の風 63

~平城宮跡·大宰府跡の保存~

 平城京は和銅3年(710 年)、藤原京から移された都で、その後、約70年間、日本の中心として繁栄しますが、延暦3年(784年)の長岡京遷都後ほどなく田地と化し、都の跡は土に埋もれてしまいました。平城京跡の研究が始まるのは江戸時代の終わり頃で、津藩(現在の三重県)の飛び地、古市(ふるいち)奉行所の役人だった北浦定政(きたうらさだまさ)が自ら測量を行い、嘉永5年(1852年)「平城宮跡大内裏跡坪割之図」を完成させます。これは平城京の条坊を復原した画期的なものでした。明治に入ると、建築史家関野貞(せきのただし)が、田の中に残る小高い土壇、通称「大黒(だいこく)の芝」が大極殿(だいごくでん)の基壇であることを発見し、地元新聞に発表しました。こうした関野の研究成果を知った地元の植木職人棚田嘉十郎(たなだかじゅうろう)は平城宮跡の保存運動を起します。やがてそれは保存会の結成へとつながり、以後、会による保存活動へと移りますが、多くの障害が生じ、棚田嘉十郎は非業の最期を遂げることになりました。しかしこの後、平城宮跡はほとんどが国有地となり、大正11年(1922年)、平城宮大極殿朝堂院跡が史跡指定されました。昭和27年には特別史跡となり、指定範囲も大きく拡大し、現在に至っています。

 一方、奈良時代、西海道(さいかいどう)諸国(九州全域)を統括し、大陸との外交窓口であった大宰府は、承平·天慶(じょうへいてんぎょう)の乱における藤原純友(ふじわらのすみとも)の兵火により焼亡したものの、時をおかずして再建されました。大宰府の中心である政庁が廃絶したのは11世紀後半頃と考えられています。巨大な礎石だけを残し、地下にうずもれてしまった大宰府政庁、通称都府楼(とふろう)について、福岡藩士で、国学者でもあった青柳種信(あおやぎたねのぶ)は文政年間(1818~1829 年)に著した『筑前国続風土記拾遺』の中で、多数の礎石が残ることや、福岡藩がそれらの保護対策を講じていたことを記しています。大宰府跡の保護の歴史はここに始まり、大正10年(1921年)に史跡、昭和28年に特別史跡に指定されました。