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歴史の風 65 ~発掘調査の開始~

歴史の風 65

~発掘調査の開始~

 昭和30年から34年にかけて仙台市木ノ下にある陸奥国分寺跡を発掘し、伽藍(がらん)の主要部分を確認するという注目すべき成果を上げた東北大学の伊東信雄は、その経験と実績をもとに、昭和35年から「多賀城跡附寺跡」の学術調査を開始しました。多賀城跡の調査は、大正10年、内務省史蹟名勝天然記念物調査会考査員だった柴田常恵(しばたじょうえ)が、城跡内を入念に踏査し、土塁状の高まりなどを正確に記録した測量図を作成しましたが、地表面上の観察という限界があるものでした。伊東は、多賀城の研究には発掘調査によって遺跡の実態を正確に把握する必要があると考えたのでした。

 初年度は、多賀城跡と廃寺跡の航空測量を行って詳細な実測図を作成し、昭和36年・37年に廃寺跡の発掘調査を行いました。先に廃寺跡の調査を行ったのは、多賀城跡が農村地帯にあったのに対し、廃寺跡は東側から宅地化の波が迫っているという周辺環境を考慮してのことだったようです。

 調査期間は、いずれも夏期の1カ月程度と短いものでしたが、金堂、塔、講堂など10棟の建物跡を発掘し、その位置と規模を明らかにするという大きな成果を上げています。

 多賀城政庁跡の発掘調査は昭和38年から行われ、第1次調査も廃寺跡と同様夏期の1カ月余りの期間内で行われました。調査当時「内城(ないじょう)」と呼ばれていた政庁跡は、昭和35年の測量で東西約103メートル、南北約130メートルの長方形であり、規模の点で大宰府政庁跡との類似に気付いていました。

 調査の結果、想定どおり、内城の中心に位置する土壇上で正殿跡を確認し、その南北中軸線上で中門(政庁南門)や後殿を発見するという成果を得ることができました。伊東は、この第1次調査の成果をまとめた『昭和三十八年度多賀城跡発掘調査概報』の中で、早くも、「内城」の建物配置が藤原宮、平城宮、平安宮、大宰府のそれと類似する点に注目し、特に大宰府との類似性を指摘しています。宮城の朝堂院(きゅうじょうのちょうどういん)の殿堂配置にならったものが、多賀城に存在したという事実は、城柵を単なる軍事施設と見なす従来の学説に疑問を呈し、その後、東北の古代史研究に大きな影響を与えました。