歴史の風 68 ~多賀城跡の魅力~
歴史の風 68
~多賀城跡の魅力~
多賀城は、古代国家が東北地方に設置した出先機関の中心であり、東北地方経営にかける古代国家の強い意思を反映した遺跡です。大正11年に史蹟、昭和41年には特別史跡の指定を受けました。
多賀城跡は、地下に眠る遺跡としての重要さに加え、主に多賀城廃絶後に形成され、現在目にすることのできる市川の集落、塩竈街道、石碑、社寺、起伏に富んだ地形、さらには古くからの言い伝えなどさまざまな要素が相まって、独自の景観が形成されています。
塩竈街道沿いにある弘安(こうあん)10年(1287年)の年号のある板碑は「伏石」という名で知られています。この名のいわれについて、仙台藩4代藩主綱村が奥州一宮鹽竈神社を参詣する道筋にあたることから、畏(おそ)れ多いこととして、立っていた石を伏せたという伝承が伝わっています。
また同じく街道沿いには陸奥国延喜式内社(えんぎしきないしゃ)百社を合祀(ごうし)したとされる陸奥総社宮をはじめ、多賀神社、貴船(きぶね)神社、多賀城神社が鎮座し、信仰の様子を今に伝えています。
江戸時代に発見され「壺碑」の名で有名になった多賀城碑周辺には、「つぼのいしぶみ」道標、「御即位紀念風致林」碑、「芭蕉翁礼讃碑」などの石碑が建てられており、多くの人々が「壺碑」に対し、心を寄せていたことがうかがえます。
さらに城内にある市指定保存樹木は、いずれも樹齢数百年で、自然景観を象徴するものとなっています。
このような歴史・文化・景観を保護・継承してきたのが市川集落の人々でした。集落は塩竈街道に沿って営まれ、現在でも家屋や倉、生垣、その周りに広がる畑は、江戸時代以来の面影を色濃く残しています。明治初年の絵図に描かれた畑や水田で今でも農業が営まれており、農村景観が広がっています。
近世以降に育まれてきた生活に密着したさまざまな要素が醸し出す景観、特別史跡としての多賀城の価値、これらが渾然一体(こんぜんいったい)となっている状況が、多賀城跡の魅力ではないでしょうか。