歴史の風 73 ~銭神子安観音~
歴史の風 73
~銭神子安観音~
大代3丁目の住宅地の一角に観音堂があり、石造の観音像が一体祀(まつ)られています。観音像の台座には正徳5年(1715 年)8月16日の紀年銘が刻まれており、代々渡邉家がベットウ(別当)を務めることから、「渡邉さんのところの観音様」と呼ばれて親しまれています。
観音像が現在の場所に来るまでには4回の移動があったとされており、最初に置かれたのは旧笠神村の小澤という場所でした。渡邉家の先祖に権右衛門という人がおり、仙台からの帰り道で岡田の人々から観音像を譲り受け、小澤に置いたという話が語り継がれています。その後すぐに旧大代村の銭神という場所に移したとされ、この地名が銭神子安観音(ぜにがみこやすかんのん)の名前の由来になっています。その後、長い間銭神で祀られていましたが、その場所が多賀城海軍工廠建設用地になり、昭和17年頃に字雷神の山の中に一時的に移され、終戦後に県道23号沿いに運ばれました。現在地へ移されたのは平成元年であり、道路の拡張工事のためであったと観音堂に納められている棟札に記されています。
祭りは9月18日に行われています。現在は渡邉家の人々が赤飯などの供物を上げて観音像を囲みますが、以前は多くの人々が訪れ、とてもにぎわったそうです。県道23号沿いに観音堂があった頃には、80~100 人もの参拝者が来ていたということです。
祭日以外にも、普段から多くの参拝者が観音堂を訪れていました。子どもの夜泣きに大変御利益があるとされ、地域の女性たちからは実際に願掛けに行った話を多く聞くことができます。祈願の際には「七色(なないろ)の菓子」が必要で、供物を7種類用意してはじめて願いが聞き入れられると言われています。また、体調不良にも御利益があり、観音像を自分の体に見立て、悪い箇所を藁(わら)でくくって願を掛け、お礼参りの際にその藁をほどくという慣わしがありました。
大代をはじめ、多くの人々の願いを聞いてきた観音像ですが、参拝者の高齢化などの影響から、訪れる人は年々少なくなってきています。しかし、現在でも時々納められる供物が地域の人々の来訪を知らせ、観音像に寄せられた信仰の深さを感じさせます。