歴史の風 77 ~船塚観音堂と名号塔~
歴史の風 77
~船塚観音堂と名号塔~
旧笠神村に位置する陸上自衛隊多賀城駐屯地には、近年まで、船塚(ふなづか)と呼ばれる小山がありました。かつては、箱塚(はこづか)、鍋塚(なべづか)という塚もあったと『多賀城町誌』に記載されていますが、最後まで残っていたのが船塚でした。
船塚周辺一帯は、昭和18年に開庁した多賀城海軍工廠の用地となり、その敷地が陸上自衛隊多賀城駐屯地に引き継がれた後も、敷地の南西隅にかろうじて小山の形状をとどめていましたが、平成27年の緊急避難路笠神八幡線整備工事によって、完全に消滅してしまいました。
海軍工廠建設以前、船塚には観音堂や供養塔が祀られ、笠神村における信仰の場となっていました。安永3年(1774年)の笠神村風土記御用書出には、仏閣として観音堂の記載があり、南向き二尺作りと記されています。現在、観音堂は笠神村に縁が深い西園寺境内に移設されており、平成27年度に実施した建造物調査では、江戸時代後期頃の建築意匠とされています。
船塚にあったいくつかの供養塔のうちの一基は平成27年の工事の時まで残っていました。享保12年(1727年)八月吉祥日に造立されたこの石塔は、中央に「南無阿弥陀仏」と六字名号が刻まれた名号塔(みょうごうとう)で、念仏供養に関わる石塔です。名号の下には、「師匠□□□(判読不明)」を先頭に15名の男性名や、「西園寺□□」、「頼宝院」の名が刻まれており、15名は講集団と見られます。頼宝院は大代村にあった修験来宝院のことと考えられ、供養の場に、寺院と修験が深く関わっていたことが分かります。
現在、本市において、念仏供養は、ほとんど見ることができませんが、江戸時代の前半から中頃にかけては、市内各地域で行われていたことを、このような供養塔の存在からうかがうことができます。
現在この名号塔は、笠神から遠く離れた市内某所に保管されていますが、西園寺に移された観音堂とともに、笠神村の歴史を伝える貴重な歴史資料と言えることでしょう。