歴史の風 82 ~留ケ谷の鰐口~
歴史の風 82
~留ケ谷の鰐口~
現在、山形市三日町にある天台宗寺院の聖徳寺(しょうとくじ)に、かつて留ケ谷にあった鰐口(わにぐち)が一口保管されています。
鰐口とは、寺院や仏閣の堂宇(どうう)につり下げられた鐘の一種で、円盤状の体部の下半部が大口を開けたように裂けた形状となっているものです。
聖徳寺にある鰐口には、「奉納 這ケ一口紅葉山観世音菩薩/宮城郡留ケ谷村施主/菅野善八郎基信/寛保元酉天五月十八日/仙臺大西五郎次清冶作」と50文字からなる銘文があり、この鰐口が作られた経緯が明確に記されています。
留ケ谷地区の東側には、野田玉川が流れ、その東西にある低丘陵一帯は紅葉山(もみじやま)と呼ばれた場所でした。現在、留ケ谷の向泉院(こうせんいん)に移設されている仏閣糸掛観音(いとかけかんのん)は、もとは野田玉川の近くにあったもので、銘文にある紅葉山観世音菩薩とは、糸掛観音堂の本尊と考えられます。
この鰐口は、寛保元(1741)年に、留ケ谷村の菅野基信が観音堂に奉納したものだったようです。「這ケ」は「這箇(しゃけ)」で、「これ(この)」の意味であることから、銘文の冒頭部分は「この一口、紅葉山観世音菩薩に奉納」となるのでしょう。
聖徳寺に伝わる話では、仙台領が飢饉(ききん)で荒れた年、数人の農民集団が藩境を超えて出羽国に入り、聖徳寺に助けを求め、施しを受けたお礼に鰐口を渡したとされています。
現在、この鰐口は、聖徳寺境内にある太子堂に、その祭日である4月22日と年末年始の時期だけ掛けられ、参拝者によって鳴らされています。周辺が市街地化する以前は、1キロメートル離れたあたりまで、その音色が響いたといわれています。
聖徳寺では、この鰐口を今日に至るまで大事に保管しており、太平洋戦争で金属器の供出が命じられた時にも寺の鰐口を差し出し、留ケ谷の鰐口は手元に置いていたということです。