歴史の風 84 ~留ケ谷の向泉院~
歴史の風 84
~留ケ谷の向泉院~
向泉院(こうせんいん)は塩竈市との市境に近い留ケ谷一丁目にある臨済宗の寺院です。安永3(1774)年の「留ケ谷村風土記御用書出(かきだし)」によれば、「留谷山」の山号(さんごう)をもち、「田子屋(たごや)」と呼ばれる場所にありました。宗派は臨済宗で、竪(たて)4間半、横6間という南向きの仏殿があり、そこに祀られている本尊は、木造の聖観音坐像で、大きさが5寸(約15センチ)と記されています。
この寺はかつて「寺山(てらやま)」と呼ばれるところに所在していました。ここは現在、多賀城史遊館などがある場所ですが、以前は、東北電力学園や研修センターとして使用されており、昭和52年、学園の実習作業中に地下から中世の板碑が発見されています。また、平成28年度に実施した向泉院の仏像調査の結果、中世の作とみられる仏像が何体かあることが分かりました。
寺山から現在地へ移ったのは、『多賀城町誌』によれば元禄6(1693)年のこととされています。当時この地には蒲生(がもう)の領主和田氏の側室が住んでおり、元禄6年に亡くなった後、その住まいを庫裏(くり)(居所兼台所)にしたとのことで、向泉院境内にある「慧香院殿華顔浄蓮大姉」の法名と元禄6年5月5日の年次が刻まれた墓標が、その側室のものと伝えられています。なお、和田氏について町誌は、江戸時代の1600 年代半ば、御舟入堀(おふねいりぼり)の開削にあたった和田織部房長(おりべふさなが)ではないかと推定しています。
向泉院のある留ケ谷は、歌枕「野田の玉川」や「おもわくの橋」などの名所があることでも有名ですが、おもわくの橋を詠んだ西行の歌に見える楓(かえで)が現地にないことを惜しんだ仙台藩の学者佐久間洞巌(さくまどうがん)の進言により、橋の袂(たもと)や東の小山に楓が植えられ、20数年後、再び現地を訪れると、橋は「紅楓(もみじ)橋」山は「紅楓山(もみじやま)」と呼ばれるまでになっていたと記録されています。向泉院には、この時に植えられたと伝わる楓が1本、昭和50年代の初め頃にはまだ残っていたといいます。今その姿は失われてしまいましたが、現在の向泉院の山号「紅葉山」が、楓の名所であったかつての面影を今に伝えています。