歴史の風 87 ~田中村 観音講~
歴史の風 87
~田中村 観音講~
東田中には志引(しびき)観音を信仰する人々の集まりが二つあり、それぞれ「男の観音講」「女の観音講」と呼ばれています。この呼び名が示す通り、本来は男女で分かれて活動するものでした。
「男の観音講」は、明治7(1874)年からの記録が残っており、最後に集まりが持たれた平成25年時点では、7戸が活動していました。1月23日と8月23日にヤド(宿)と呼ばれる当番の自宅で講員が観音像を拝んでいましたが、本来この集まりに参加するのは戸主の男性に限られており、女性はその様子を見ることすら禁じられていました。志引観音堂は、志引石(しびきいし)とともに宙を飛んでこの地に来た少女を祀まつるものであるため、観音講で祀っている観音像は女性であるとされています。そのため、その場に女性がいると、観音様が嫉妬(しっと)すると言われており、この決まり事は固く守られてきました。しかし、世代交代が進むと、次の戸主が仕事の都合で参加できない場合など、代わりにその母親が参加する家が増えていきました。また、かつては、当日の集まりの時間はろうそくが燃え尽きるまで、酒も一升までという決まりもあり、緊張感を持って観音像の前に顔をそろえたことがうかがえます。
「女の観音講」は、12戸ほどの家の女性によって構成されており、現在でも活動を続けています。年配の女性が多く、姑が集まりに参加できなくなったことを契機に、嫁に引き継がれることが多いとされています。5月と10月に観音堂で集まりがあり、持ち寄った米を供え、ろうそくを灯し、御詠歌(ごえいか)をうたいます。その後の直会(なおらい)では、女性たちが赤飯や菓子を広げて会話を楽しみます。田植え、稲刈りが一段落した時期に行われるこの集まりは、志引観音への信仰に加え、昔から地域の女性たちが仲間と楽しいひと時を過ごす娯楽(ごらく)的な一面も持ち合わせていたと考えられます。
東田中地区は、本市中心部に位置し、近年著しく開発が進んでいる地域です。しかし、志引観音の周辺には寺社仏閣、古い供養塔や墓標など、地域の歴史を伝える文化財が多く残っており、神仏への信仰や人々のつながり、慣習なども、かたちを変えながら大切に受け継がれています。