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歴史の風 88 ~田中村 デンジョウヤマ~

歴史の風 88

~田中村 デンジョウヤマ~

 本市のほぼ中央部、東田中2丁目に木立が生い茂る標高約10メートルの低丘陵があります。志引(しびき)観音や志引石(しびきいし)※があるこの丘陵一帯を、地域の人々はデンジョウヤマと呼んでおり、『多賀城町誌』では「田中山(でんちゅうやま―でんじょやま)としています。デンジョウヤマには殿上山の字をあてるという説もあるようです。

 このデンジョウヤマを南北に分けるように東西方向の小道があり、その北側に寺前という地名が残っています。そのさらに北側には、鎌倉時代後期に造立された大型の板碑が立っている場所があり、『多賀城町誌』では、地面を造成した形跡がうかがわれるとして、寺院の存在を推定しています。東西の小道の周辺には、板碑や近世の供養塔が点在し、丘の中には江戸時代から明治にかけての墓地もそのまま残っています。

 墓地の中に、権大僧都阿闍梨法印(ごんだいそうずあじゅりほういん)傳重と阿闍梨法印永順の墓標があります。いずれも、天童氏の家中寺である八幡村光徳院の住職であり、傳重が二世、永順が三世でした。傳重は延宝2(1674)年、永順は貞享2(1685)年に没していることが墓標銘から知られます。四世傳榮以降、光徳院住職の墓は、天童家歴代の墓所の一角にありますが、それ以前の傳重と永順の墓がデンジョウヤマに営まれた理由は、今後解明しなければならない問題です。田中村が天童氏の領地であったことは、宝永元(1704)年に五代藩主伊達吉村が、天童家五代領主であった頼真に与えた領知朱印状の知行目録で確認できますが、永順の墓が建てられたのはそれより19年も前のことです。傳重と永順の墓の存在から、田中村が宝永元年より以前に天童氏の領地となっていた可能性も考えられます。

 このデンジョウヤマについて、安永3(1774)年の「田中村風土記御用書かきだし出」には、千引石(ちびきいし)の所在地を観音堂山と記されています。また、三塚源五郎が昭和8年に著した『多賀城村聚落(しゅうらく)の機構 地名の研究』では、「志引観音の後、旧街道の坂」を観音坂としています。観音堂山や観音坂の名は、おそらく千引(ちびき)観音堂にちなんだものと考えられます。

 しかし、その名を知る人は今ではほとんどなく、由緒あるそれらの名は、地域の人々の記憶からも今や失われようとしています。

※志引(しびき)は、本来千引(ちびき)の文字でした。