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歴史の風 89 ~高崎村 鬼子母神堂~

歴史の風 89

~高崎村 鬼子母神堂~

 現在は住宅が立ち並びその面影はありませんが、高崎2丁目には鬼子母神堂という日蓮宗のお堂があり、地域の人たちからはキスポンサマ(鬼子母神様)と呼ばれ、信仰を集めていました。

 昭和13年に開宗50年を記念して建てられた「妙法」碑には、この碑を建てるにあたっての寄附者名が記されており、高崎地区を中心に、市内はもとより現在の富谷市や仙台市若林区の方まで、広範囲にわたって信者がいたことが分かります。市内には、「南無妙法蓮華経」と刻まれた近代以降建立の題目(だいもく)塔が多くありますが、これらは高崎地区に多く分布しています。また、かつては年配の女性を中心に、各家庭で団扇(うちわ)太鼓を手に題目を唱えていたという話もあり、この地域では近代に日蓮宗の信仰が盛んだったことがうかがえます。

 ここの本尊は、弘安7(1284)年の銘が刻まれた中世の板碑です。年号が刻まれている板碑の中では市内で最も古く、市指定文化財になっています。現在は化度寺の参道に移設されていますが、もとは鬼子母神堂で祀(まつ)られていたものです。この板碑は、信心深い男性が畑の中に埋もれているのを見つけ、その場所にお堂を建立し、鬼子母神堂を開いたと伝えられています。その息子の時代になると次々に信者が増え、10月18日の祭日には大勢の人が多賀城駅から列をなして参拝に訪れるほどのにぎわいであったといわれています。

 鬼子母神堂では、病気平癒(へいゆ)の祈祷(きとう)や、祟(たた)りの原因を占うといったことが多く行われていました。高崎の太子堂には、猿の姿が彫られた明治31(1898)年の題目塔がありますが、これも猿の祟りに苦しむ人が、鬼子母神堂の巫者(ふしゃ)の指示で建てたものであると伝えられています。

 多くの人の信仰を集めた鬼子母神堂ですが、平成2(1990)年に火災によって焼失してしまいました。境内にあったいくつかの石碑などは市外に流出したとされていますが、狛犬や手水(ちょうず)鉢、幟(のぼり)などは近隣の家で保管され、当地域における近代日蓮宗信仰の歴史を現在に伝えています。