1. HOME
  2. コラム
  3. 歴史の風 91 ~高崎の日光院~

歴史の風 91 ~高崎の日光院~

歴史の風 91

~高崎の日光院~

 高崎二丁目の南西端、化度寺(けどじ)の西110メートルの位置に日光院(にっこういん)と呼ばれる小祠(しょうし)があります。堂宇は、低丘陵の西端部の狭い平場にありますが、明治7~9年に宮城県が作成した堂宇敷地区画図には、日光堂として南北8間、東西6間5歩の境内地が図示され、かつての敷地はもっと広かったと推定されます。

 堂内は土間で、その中央には、頭部を三角形に加工した板状の石碑がただ一基立っており、「カーン(梵字)日光大権現」と刻まれています。

 日光院に関しては、安永3(1774)年の「風土記御用書出」にも記載がなく、資料がほとんどない状態ですが、『多賀城町誌』に次のような伝説が収録されています。『ある時一夜の宿を求めた旅の僧が病にかかり、息を引き取る時、逆さに埋葬してほしいと遺言した。宿の主人はそのとおりに葬るにしのびず、正位で葬ったところ、村に病気が流行したため、遺言どおり逆さに埋葬し直したところ病気が収まった。』その旅の僧の供養のため、小祠を建立して祀ったのが日光院ということです。

 日光院の北東670メートルの地点にある通称念仏壇(ねぶた)には寛文9(1669)年の庚申(こうしん)供養塔があり、その中に化度寺と並んで日光院の名が記されています。庚申供養にあたり、化度寺と日光院からそれぞれ導師を務める人が出て執り行ったと考えられ、日光院が宗教家として活動した年代の一端が知られます。

 また、日光院の堂宇の西側には延宝7(1679)年に建立された日光院妻の墓標があります。娘が施主となって建立したこの墓標から、日光院が妻帯できる宗教者であったことが明らかで、僧侶ではなく、修験の道士の可能性があると考えられます。

 日光院堂内には、「日光大権現御坂修繕旗立二対寄附人名」と題した大正13年旧4月13日の寄進札があり、寄付人32人、世話人6人の名が記されています。

 現在参道に立つ旗立はこの時の寄付で設置されたものであり、日光院が地域の人々によって守られてきた歴史を伝えています。