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歴史の風 92 ~高崎の太子堂~

歴史の風 92

~高崎の太子堂~

 高崎二丁目の井戸尻公園西側に太子堂という小祠(しょうし)があります。聖徳太子を祀(まつ)っているとされ、地域の人々にはオデッサマ(お太子様)と呼ばれています。

 安永3(1774)年の風土記御用書出(ふどきごようかきだし)には、「塔の越原」という場所から「北屋敷」に移り、ここの地主である助八が別当を務めていること、境内は竪16間、横5間の広さがあったこと、本尊は高さ2尺8寸の石仏立像であることなどが記されています。現在太子堂に祀られている石仏は、書出にある本尊と考えられ、台座には正徳3(1713)年の年号が刻まれています。

 かつて高崎には、このオデッサマを信仰するオデスコウ(お太子講)という年配の女性の講が存在し、旧暦3月22日にヤド(宿)と呼ばれる当番の家に集まっていました。この講で拝んでいた聖徳太子が描かれた掛軸の裏面には、明治36(1903)年の年次とともに10人の女性名が記されています。講の記録帳には昭和37(1962)年までの記録が残されていることから、この時期までは活動していたと考えられます。

 オデッサマは、安産の御利益があることから、年配の女性たちだけでなく、若い女性たちの信仰も集めました。かつて石仏には、前掛けが巻きつけられており、祈願(きがん)の際にはこの中から一枚借りて願を掛け、祈願成就の際にはもう一枚手作りしたものを添えて返しました。現在、前掛けを奉納する人はほとんどいなくなりましたが、このような祈願が多かった当時の写真には、幾重もの前掛けを身にまとった姿が写されており、人々の信仰の深さをうかがうことができます。

 現在、オデスコウも、石仏に巻きつけられた前掛けも見られなくなり、太子堂の信仰が盛んだった頃の様子を知る人も少なくなってきました。しかしそれでも、年に一度の祭日には、近くの家の人が幟のぼりを掲げて赤飯を供えており、その歴史を今に伝えています。