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歴史の風 94 ~大日堂の本尊~

歴史の風94

~大日堂の本尊~

本市西部、高橋5丁目の奈賀済公園東にある大日堂は、安永3(1774)年の「高橋村風土記御用書出」によれば、寛永年中(1624~1643)に村人によって建てられたと記されており、かつてあった場所は、現在地から約600メートル北西の地でした。
明治43年、南宮神社、日吉神社、稲荷神社とともに陸奥総社宮に合祀(ごうし)されますが、神仏不在となってしまった地元では、精神的な拠り所として近隣の民地に堂宇(どうう)を移し、新たに本尊として大日如来像を祀ることにしました。

像は24センチメートル余りの蓮の花をかたどった台に座し、高さは約47センチメートル。円筒の冠を戴き、胸の前で立てた左手の人指し指を、右手で握る「智拳印(ちけんいん)」という、金剛界(こんごうかい)大日如来特有の印を結んでいます。
この像は堤焼(つつみやき)で、台座の内部に焼成前に刻まれた銘文があり、そこには「仙台/堤町」「圓山(えんざん)/作」「窯業(ようぎょう)/研究/所造」と記されていたことから、制作者と制作場所が分かる、陶製の珍しい像です。

堤町は江戸時代、奥州街道沿いに作られた町で、城下の北を警護するための足軽衆が置かれていました。現在でも台原丘陵から旧仙台市街地への入り口一帯が堤町と呼ばれ、旧街道の名残がわずかに残されています。この町で足軽の副業として作られるようになったのが堤焼でした。昭和11年、堤焼振興の目的で「窯業研究所」が開設され、昭和16年には、会津本郷焼の技術者であった本郷嘉市が指導者として招かれました。台座に刻された「圓山」は、嘉市の号です。
嘉市の技術水準は高いものでしたが、堤焼の技法とは全く異なっていたため、技術を習う陶工は少なく、窯業研究所も大きな貢献を果たすことがないまま、昭和25年に閉鎖されました。

これらのことから、大日堂の本尊である堤焼の大日如来像は、圓山川庁舎:本郷嘉市が窯業研究所において制作したもので、その年代は、嘉市が招聘(しょうへい)された昭和16年から、研究所が閉鎖された昭和25年までの間であることが分かりました。
嘉市の作品は故郷の会津美里町に33点確認されていますが、その中に仏像は残されていません。嘉市がなぜ仏像制作に携わったのか、大日堂の本尊に陶製の仏像を選んだ理由と併せて、今後さらに調査を進めていきたいと考えています。

出典:広報多賀城 歴史の風94~大日堂の本尊~

※写真は令和二年撮影