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歴史の風 097 〜一四五石取の仙台藩士〜

歴史の風 097

〜一四五石取の仙台藩士〜

江戸時代、新田村に在郷屋敷を持っていた仙台藩士の一人に千葉氏がいます。千葉氏は政宗に召し抱えられた数多くの家臣の一人で、初代尚久は徒小姓(かちごしょう)、その子孫は中間番士(なかのまばんし)として仕えました。石高は、加増や新田開発により、延宝4(1676)年には145石8斗1升となっています。

千葉氏の屋敷跡は、現在の新田字南安楽寺の2号公園付近にありました。昭和42年頃まではその痕跡をとどめていたようで、『多賀城町誌』には、写真が1枚収録されています。「諸侍衆在郷屋敷高下御定」には在郷屋敷を造る際の規定があり、145石の千葉氏の場合、田畑をつぶして造る場合は30間×40間(1200坪)、野原に造る場合は40間×50間(2000坪)とされ、仙台城下の屋敷とは比較にならない広い屋敷地だったと推定されます。

この屋敷跡の東約100メートルの地点に「お阿弥陀様」と呼ばれる小祠(しょうし)があります。これは千葉氏の宅神で、平家の武将平貞能(たいらのさだよし)の支流という千葉氏が、仙台市大倉にある定義如来の分霊を祀ったものとされています。

また、屋敷跡の北東約230メートルの畑地の中に千葉氏の墓地があり、21基の墓標が残されています。最も古いものは、出雲と称した吉久とその妻の連名の墓標で、没年は、妻が正保3(1646)年、吉久は寛文5(1665)年であり、最も新しいのは明治13年に没した吾摟の墓標となっています。

千葉氏は明治初年まで新田の屋敷に居住し、その後仙台市に転出したということから、この墓地は、千葉氏が新田村に居住した約230年の間に営まれた当主およびその家族の墓地ということになります。

千葉氏の新田村における事績は明らかではありませんが、小牛田の山神を祀った文化13(1816)年の供養塔には、百姓身分の女性たち9人の名とともに「生江(なまえ)氏/千葉氏/牧埜(まきの)氏」と刻まれています。千葉氏の妻女が村の女性たちと共に山神講に加わり、身分を超えた付き合いをしていたことを知ることができます。