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歴史の風 99 〜新田村の仙台藩士〜

歴史の風 99

〜新田村の仙台藩士〜

江戸時代、新田村に知行地を持っていた仙台藩士の一人が小嶋(おじま)氏です。氏の祖先にあたる景宅は会津の出身で、伊達政宗の代に大番組として召し抱えられ、5貫231文を給されました。

その後仙台藩2代藩主忠宗の時に実施された寛永総検地により6貫539文の知行高を与えられました。

小嶋家には、寛永21(1644)年から弘化3(1846)年まで、2代藩主忠宗から最後の藩主13代慶邦(よしくに)までの領知状13通が残されています。この領知状は、藩主と家臣との間に主従関係が結ばれたことを示す基本文書で、当時の武士にとっては極めて重要なものです。

小嶋家に伝えられた領知状および、知行地の詳細を記す知行目録から知られる知行地は、当初新田村、加瀬村、笠神村の3か村の中にあり、宝永元(1704)年からは笠神村に替わって宮城郡中野村、黒川郡大平村が加わりました。さらに幕末の弘化3(1846)年には、玉造郡伏見村が新たに加わって知行地は5か村にまたがり、知行高も1貫文増の7貫539文となりました。このような知行地の変動の中にあって、新田村、加瀬村の知行地は変わらず、新田村分の3貫余は、知行地の約半分を占めるものでした。

小嶋家は初代景宅が大番組として召し出され、御番所は次(つぎ)の間(ま)であったと小嶋氏世系図書には記されていることから、その後代々大番士(おおばんし)を務めていたと推測されます。大番士とは、仙台藩家臣団の主力を構成する家臣たちで、仙台城の警護や領内の治安維持にあたり、有事の際には軍事に携わることとなっていました。

登城した際に控える部屋の名前で呼ばれ、次の間は、仙台城二の丸の玄関を入ってすぐの場所にあたります。このような役割を遂行するためには、城下に常駐するのが普通で、小嶋家の屋敷は現在の仙台市青葉区北6番丁にあったといいます。

仙台藩において、多くの大番士の一員として役目を担った小嶋氏は、幕末の慶応6(1868)年、新政府が仙台藩に命じた会津追討に加わり、「執鎗隊」の一員として従軍しました。その後、伝手(つて)を頼り知行地のあった新田村に移り住み、現在に至っています。